天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

ギブ&テイクが基本だが、まずはギブを連発すべきである

 他人とコミュニケーションをとるのが好きか嫌いかを問われたら、宇宙刑事ギャバンの蒸着タイムよりも早く「嫌いです」と答えられる人種の一人、lokiです。

 今日はそんな自分の立場もわきまえず、人が人と上手くやっていくには、どのようなことを押さえておけばいいのか、ということについて、少し考えてみたいと思います。

 人生には様々な局面があり、そのときそのときに適合する具体的なノウハウは無数にあるでしょうが、ここではそのすべてに共通するであろう、抽象的な真理について探っていきますね。

 

 

機を見て与えまくる

 結論から言ってしまうと、記事タイトルや上記の見出しのほうになります。

 これはと思った場面では、まず自分から徹底的にギブしまくる。知識、ノウハウ、労力、何でもいいですが、それらを相手に無条件で提供し、確実に相手の役に立っておく。

 そこからすべてが始まりますし、そこさえきちんとやれれば、人生を総体的に見たとき、いろいろな物事が基本的には好ましい方向に進んでいくのではないかと、私は考えます。

 

 もちろん、あらゆるギブが、こちらの思う通りに受け入れられるわけではありません。

 思っていたほど相手の役に立つことができなかったという場合もあるでしょうし、それを超えて、むしろ迷惑をかけてしまったという場合もあるかもしれません。

 単に「都合の良い人間」という風に認識されて、それ以降、調子に乗った相手に何かと上から物を言われるようになることも、あるかもしれません。

 相手の性格によっては、逆に警戒されてしまう可能性も、ないとは言えないでしょう。

 

 しかしそれでも、とにかく与えるのです。

 与えたものに見合う何かが返ってくるかどうかを、先にあまり具体的に計算してはいけません。

「貸したお金は返ってこないものと思え」という言葉がありますが、ここで言うギブも同じように考えるべきですね。

 たとえ何も返ってこなかったとしても、決してその相手を恨んだりしてはいけません。

 こちらから見返りを要求することも、してはいけません(契約違反とかはべつですが)。

 与えたものは、あくまでも「あげたもの」であると認識しておくべきです。

 

最初からギブ&テイクにこだわってはいけない理由

 このように言うと、「お前は聖人君子になれと言っているのか?」みたいに思われるかもしれません。

 しかし、私としては、そのような意図はまったくありません。

 人間関係において最も大切なのは、ギブ&テイクがまっとうに機能していることだと考えていますし、何も返ってこないことを、心から構わないと思えるわけでもありません。

 

 とにかくギブしろというのは、要は「そういう戦略」なのです。

 

 なぜそのような、一見して偽善的な「戦略」を採るのか?

 それは、最初からギブ&テイクをきっちり成立させることにこだわり過ぎると、上手く行かないことがとても多いからです。

 ざっくり言ってしまうと、他人というのは、こちらが何かを与えたからといって、即座に何かを返してくれるものではないんですよね、基本的に。

 なので、それを期待してギブをすると、テイクが発生しないことに苛立ちを感じますし、そういう経験が続くと、そもそもギブをする気にならなくなってくるのです。

 

 その結果、他人との繋がりがなかなか作れない人間になってしまうんですよね。

 少なくとも、何らかの分野で成功を収めたい場合には、その躊躇は大きな遅延となって、あなたの歩みを阻害することになりかねません。

 ギブ&テイクというのは、成立させるために、それなりの相性なりTPOなりが必要になるもので、それを探し当てるまでには、どうしてもある程度の「ハズレ」を引き続ける覚悟をしなければならない、という言い方をするのが適切でしょうか。

 

 この辺りは、つまるところ投資と同じ感覚ですね。

 人間関係におけるギブ&テイクというのは、ビジネスにおける投資と同じく、リスクを取ってあちこちにリソースを投入し、空振りに終わったものは気にせず、上手く行ったものと長く付き合っていく、というやり方で、発展していくものなのです。

 

導き出される厳しい現実

 そう考えていくと、ある厳しい現実が必然的に導き出されます。

 先ほどから「とにかく自分からギブしていけ」と主張していますが、ギブするには当然ながら、そのためのリソースが自分の中に必要になりますよね。

 知識を与える場合は、何かに詳しくなければいけませんし、与えることで、その知識に関して相手とイーブンになるという「デメリット」があります。

 労力を与える場合は、単純に疲弊しますし、時間もたっぷり持っていかれます。

 

 つまり、たくさんのものを「すでに持って」いないと、ギブし続けることはとても難しいのです。

 その意味では、ここまで推奨してきた人間関係の進め方を真に実践するには、あなたが端的に言って「有能である」必要がある、ということになります。

 この辺り、先述の投資の比喩がそのまま使えますね。最初から潤沢な資金を持っている人間ほど確実に大きく儲けやすいのと同じように、人間関係のギブ&テイクも、結局は「持っている人」が勝ちやすい、非情なゲームだったりするわけです。

 

 こうしてわかった風に書いている私ですが、実のところこの現実はきついです。

 私という人間を客観的に評価したとき、他人に与えられるものをどれだけ持っているのかと言ったら、人一倍持っていないと言わざるを得ないからです。

 こういうことを言うと、いわゆる努力厨の方々などは「きちんと努力して積み重ねてこなかったからだろ。自業自得だ」みたいな反応を示すのでしょうが、まあ、そんな簡単なものでもないんですよ。

 例えば、先日まで連載形式で記事にしていた、中国輸入ビジネスの失敗談だって、まっとうなノウハウで一所懸命努力した結果がアレでしたからね。

 

www.tengoku-teihen.com

 

 その結果、借金を背負ってカツカツになり、なおのこと「与える」余裕がなくなってしまったのですから、人は努力しても落ちるときは落ちるのです。

 

 他にも、基本的に引っ込み思案であるとか、そういう性格的なところも、ギブしまくる暮らしをする上でのネックになっています。

 どんどん実践し、どんどん大きくなっている人達は、この辺りのことをさも簡単そうに言及しがちなのですが、控え目に言っても、世の中の何割かの人間には、相当厳しい生き方なんですよね。

 

持たざる者の処世術

 では、そんな「持たざる者達」――もう少し具体的に言うと「テイクが早く返ってこないとやっていけない者達」は、どのように生きていけばいいのでしょうか。

 これについては、私としては地味な回答を提供せざるを得ません。

 すなわち、仕方がないからギブ&テイクの早期成立をある程度意識し、まずは身内とかでもいいので、気心の知れたところから丁寧にギブしていく、というものです。

 

 持たざる者達、つまり私のような人間は、あっちこっちにギブをばら撒いて、一つでも返ってくればいいや的な戦略を採ることができませんよね。

 なので、まずは小規模で考えるのです。

 べつの方向から言うとするなら、ギブしまくれないからといってギブそのものを怖がってはいけない、という風になるでしょうか。

 とにかくコツコツやっていき、良質なネットワークを少しずつ大きくしていくしかありません。

 

 私で言うなら、このブログ自体もその一環だったりします。

 私は常に、当ブログについて「お仕事としてやっている」と書いてきました。

 それは単純に、広告収益を得たいという意味ももちろんあるのですが、それだけではありません。

 例えばwebライティング仕事を受ける際のポートフォリオとして使うですとか、あるいは同じ趣味嗜好を持った方と繋がるきっかけにするですとか、そういう狙いもあるんですよね。

 いずれも、まずは私のほうから小さなギブをし、そこから小さなテイクを拾っていこうという意図なわけです。

 

 たくさんギブしまくれない者達は、こういう小さいギブを忘れないこと、これを大事にしていくべきなのではないかと、私は思います。

 というか、恐らくそこにしか活路を見出すことはできないでしょう。

 世の中というのは、どうやらそういうところみたいなので。

 

おわりに

 以上、人間関係の第一歩について、私なりの見解を書いてみました。

 

 他の多くの物事がそうであるのと同様、人間関係を発展させていく能力に関しても、我々人間は生まれながらにして大きな差があります。

 特に苦労をすることもなく、自由自在にネットワークを強力なものにしていける人がいる一方で、どうしても他者と繋がることができない人もいる。

 本当に厳しいです。

 

 しかし「他者に必要とされなければまともに生きていくことができない」という点については強制的に全員が共有しているので、どんなに苦手でも、ギブ&テイクの呪縛からは逃れられません。

 定められたルールの中でやっていくしかないのです。

 

 いろいろな理由で「生きづらさ」を感じている人も多いと思いますが、自分にどんなギブができるのか、という視点は、常に現役で稼働させておいたほうがいいですね。

 それは優しさでも寛容さでもなく、身も蓋もない生存戦略の基礎です。情けは人の為ならず、というやつです。

 何とか踏ん張っていきましょう。

 

 ちなみに、このことと「他人の目など気にするな」という人生訓は、一見水と油のようですが、実質的にはそうでもないと私は思っています。

 その辺りについては、またいずれ書く機会があったらかたちにしてみようと思います。