天国的底辺

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Twitter:思考を偏らせる3つの危険な使い方

 何だかんだ言われながらも、Twitterは日本人のあいだにすっかり定着しています。

 評判の悪い仕様変更が行われるたびに「終わりの始まり」などと言われたりするわけですが、実際にTwitterから離れていく人はたいしていませんね。

 結局みんな、ぶつぶつ文句を言いながらも、少しずつ新しい仕様に慣れていこうと努力する、というのがいつものパターンです。

 

 今日はそんなTwitterの現在の仕様において、私が「こういう使い方をするとちょっと危険だな」と思うものを、3つほど紹介したいと思います。

 あくまでも私個人の意見ですので、思いっきり該当していたとしても、あまり気になさらないでいただけると嬉しいです。

 しかし同時に、ある程度は参考にしていただけると、記事にした甲斐はありますね。

 

 

大前提としての自由

 さて、具体的に紹介していく前に、まずお断りしておくことがあります。

 それは、これから解説していくものは、どれも基本的に「どう使おうが個人の自由である」ということです。

 これは法律がどうの、みたいな堅い話ではなく、ごくシンプルに、Twitter側がその使い方について規約を設けている事実は一切無い、ということです。

 

 従って、この記事で解説していることをあなたがやっていたからといって、あなたが誰かから責められる謂れはまったくありません。

 私もべつに、この記事を通してそれを責めたいわけではまったくありません。

 

 ただ、純粋に、私はこれから紹介する行為を危険だと感じているのです。

 タイトルにもある通り、そういうことを続けていると、思考がどんどん偏ってしまうのではないか、と。

 少なくとも私は、こういうことはやりたくないなと考えている。それだけの話です。

 

 その辺りのニュアンスをご理解いただいた上で、以降の記述を読み進めていただければ幸いです。

 

危険1:とにかくブロック

 ブロックという機能は、かなり初期の段階からTwitterに備わっているものです。

 今さら説明する必要もないとは思いますが、ある特定のユーザーとの閲覧関係を完全に断絶させる機能ですね。

 これにより、例えば悪質な人間に長期間にわたって絡まれたときなどに、その関係を事実上、Twitterの世界から主観的に抹消することができるわけです。

 

 しかしこの機能、最近の私の観測の範囲で言うのですが、だんだんとおかしな使われ方が目立つようになってきました。

 一言でいうと、「変な人を避けるために使う」というよりは、「変な人が変でい続けるために使う」というのが適切であるようなケースが増加してきたのです。

 

 例えばここに、1人の政治家がいたとしましょう。

 その政治家は思想的にやや偏っており、そしてまた、何かを発言するときに、あまり下調べというものをしない悪癖があります。

 そのため、何か機会があるごとに、その政治家は非常に突っ込みどころがあるツイートを残してしまうことになります。

 

 そうなると当然、そのツイートに対して、おかしな点を突っ込むリプライや、コメント付きリツイートが、日本中から続々と寄せられることになりますよね。

 まあ、いわゆる「恥をかいた」状態になるわけです。

 

 私の感覚で言うと、これは貴重なチャンスでもあります。

 自分の意見の間違っているところを、多くの人に教えてもらったわけですから、それを拝聴することで、階段を一段のぼることができるわけですよね。

 その上で、「なるほど、よくわかりました。指摘してくださった皆さん、本当にありがとうございます」くらいのことを言っておけば、それで万事収まりますし、むしろ好感度も上がるのではないかと思うのです。

 

 ところが、思想的に偏っている人というのは、そのような対処法を採りません。

 どうするかというと、自分に反対した人間を次から次へとブロックしていき、自分に賛同する意見だけを残そうとするんですよね。

 その結果、その人は思想的に更にどんどん尖っていき、ちょっと大げさな言い方かもしれませんが、簡単には戻ってこられないところまで突き進んでしまうのです。

 

「不愉快なものはどんどんブロックしていき、快適なTwitterライフを送ろう」

 この考え方自体は、それほど間違っているわけではないと思います。

 趣味でやっているSNSにおいて、わざわざつらい思いをする必要など何処にもありませんし、ブロックという機能をどう使おうが自由なわけですから、好きなようにやればいいじゃないかと言われれば、それに反論することは私にはできません。

 

 しかし、それは暴走と紙一重なんですよね。

 不愉快なもの、という定義はとても主観的で、言う側と言われる側のどちらに非があるかは、シチュエーションごとに大きく異なるのです。

 Twitter社の想定としては、「悪いものとの関係を切る」というシンプルな利用方法があったと思うのですが、変な人の考える悪いものが、一般的にはまっとうな指摘である、というパターンが存外多かった。

 結果的に、ブロックという機能は、様々な意見を広く集めるべき状態にある人間ほど、それをしない――という、ある種の情報格差のようなことを促進するものになっています。

 今のところ、その対策は見つかっていません。仮にシステム的にそれをどうにかできるとしても、ブロックを禁じるなどということは到底できないでしょう。

 何とも歯痒い話ではあります。

 

危険2:スクショにコメント

 コメント付きリツイートが登場したのは、私の感覚で言うと、割と最近のことです。

 この機能、私に言わせれば、かなり繊細です。

 というのも、引用元のツイートに向かって話しているのか、それとも引用元のツイートを受けて独り言を言っているのか、場合によって行為の性質がまったく異なるのです。

 この機能を使って延々と議論を繰り返している人もいますし、そうではなく、単純に「自分が何を見てこれをツイートしているのか」の説明のために引用しているだけの人もいます。

 文脈依存が激しい機能なのです。

 

 そして最近、このコメント付きリツイートの亜種のようなものが目立つようになってきました。

 あるツイートをスクショして、それを画像として貼り付け、その内容についてツイートをする、というパターンが増えてきたのです。

 

 この行為の目的は明白です。

 要するに、元のツイートの主に気づかれることなく、それを紹介しつつ自分の意見を書きたい、というときにこの手法が使われるわけですね。

 大抵の場合、これをやるときは、元のツイートに対してツッコミを入れるときです。

 それによって元ツイートの主と揉めることになったり、あるいはブロックされたりといったことを防ぎたい、ということなのでしょう。

 

 正直、その気持ちはよくわかります。

 これは上で説明した「危険1」にも関連することです。

 思想的に偏った人に対して何か意見を言いたいが、直接届くかたちで言ってしまったら、ブロックされて、その後その人がどんなことを言っているかをチェックすることができなくなってしまう、というような事情があるわけです。

 これを回避する手段として、スクショを撮ってそれに対してコメントすることは、とても有効なんですよね。

 

 しかし、この手法自体にも、やはり罠はあります。

 このやり方は基本的に、相手に対して反論の機会を与えずに、こちらの言いたいことを一方的に言って終わりにする、という性質を備えています。

 なので、一種の欠席裁判のような様相を呈してしまうんですよね。

 自分は言いたい放題に言いたい。でもそれに対して相手には何も言わせたくない。そういうセコい願望を満たす手段としても使われてしまっているのです。

 

 私は普段、エゴサーチのようなことはしないのですが、かつて一度だけ、リプライを送った相手のその後の動向を追ったら、その相手が私のリプライをスクショして、それを嘲っているのを目撃したことがあります。

 その内容は、私からすれば一方的で偏ったものであり、よっぽど反論しようかと思ったのですが、ちょっとストーカーじみていますし、余計に相手の反感を買うのではないかと思ったので、その場は何もせず「見なかったこと」にしました。

 率直に言って、気分の良いものではありませんでした。

 

 スクショにコメントというのは、このような負の側面もある行動なわけです。

 これもブロックと同様、Twitter社が想定していなかったものなのではないかと私は想像しています。

 もちろんこれも、やるのはまったくの自由ですし、誰もそれを止めることができないわけですが、是非について問われたら、上記のようなことを答えないわけにはいきません。

 

危険3:DMで議論

 事の性質上、この目で直接見たことはないのですが、世の中にはDMを使って議論しようとする人が結構いるみたいですね。

 時々そういう内容をスクショして晒しているツイートに出くわすことがあるのですが、まあ大体において、当事者たちの関係はこじれにこじれています。

 私が観察してきた限りでは、DMでの議論が何か建設的な方向に進んだという事例は、ほとんどありません。

 

 もちろんここで言っているのは、何らかの意見の食い違いがある場合に、それを解決しようとしてDMで議論を展開する場合です。

 もともと利害の一致している人たち同士が、何らかの打ち合わせのようなことをする上では、DMは有効に機能することでしょう。

 しかし、上手く行っていないものを上手いかたちに修復する、という使い道には、DMはまったく適していません。

 

 この辺りに関する私の意見として、そもそもギャラリーのいない場所で「ネット議論」をしようとすること自体が間違いなのだ、というのがあります。

 私はネット議論というものを、ギャラリーに対するアピール合戦であると捉えているので、ギャラリーのいない場所で、2人きりで話し合うというのは、元々の揉め事をどこにも決着させないと思っているんですよね。

 

www.tengoku-teihen.com

 

 DMを使いたがる人の心理としては、込み入った会話の内容を第三者に読まれたくないとか、余計な茶々を入れられたくないといったことがあるのではないかと思うのですが、それは重視すべきではありません。

 むしろ「放っておくとどんどん泥沼化してしまうものを、ギャラリーの存在が補正してくれる」くらいに考えておくのが、健全な発想なのではないでしょうか。

 

要するにすべては人間性

 以上、Twitterにおける、あなたの思想を偏らせる危険性のある3つの使い方について、説明してみました。

 どの使い方にも共通することですが、一方的にTwitterの仕様が悪い、ということはまったくありません。

 使い方次第ではとても有効であるものが、使う人の持っている歪みによって、おかしなものを生み出してしまいかねない、というのが、ここでの本質です。

 何度も繰り返すようですが、どの仕様も「ルール上どう使おうが自由なもの」なわけですからね。

 

 結局のところ、すべてはその人の人間性に委ねられているのです。

 ある種の人間は、与えられた仕組みを建設的に使うことができず、自分の問題点をどんどん暗く、取り返しのつかないところへ進めていこうとしてしまいます。

 しかしその一方で、こういったすべての機能を見事に使いこなす人も、それなりにいることでしょう。

 これは単純に「良い人」「悪い人」という区分ではなく、また、一般的に言われる知能や知性の問題でもなく、本当に「人間性」としか表現しようのない個人差です。

 ものすごい学歴があって、ものすごい肩書きを持っている人が、上記の機能を信じられないくらい間抜けなかたちで使っているケースは、これまで山ほど目撃してきました。

 

 人間とはなんだろう、みたいなことを思わず考えてしまいますね。決して大げさな話ではなく。

 

おわりに

 私自身は、至って呑気なTwitterライフを送っているので、9年半以上の利用歴の中で、上記のような行動に出る機会は一度もありませんでした。

 まあ、誰かと揉めるような根性がないので、初めから当たり障りのないことばかりツイートしている、というのが実のところですが。

 なので、今回記事にした内容は、基本的にはすべて「他人事」ということになります。

 

 しかし、これから先もずっとそうであるとは限りません。

 もしかしたらいつの日か、何かの渦中に放り込まれるときが来るかもしれません。

 そのときに、果たして自分は冷静に振る舞うことができるだろうか――ということについては、しばしば考えます。

 もしかしたら自分も、多くの人に突っ込みを入れられまくったら、思わず次々とブロックしたくなってしまうのではないか。誰かとマンツーマンで話をつけたくて、DMで議論を吹っ掛けてしまうこともあるのではないか。

 そのようなことです。

 

 何が起ころうとも、良い意味で呑気に行きたいものですね。

 私としては、Twitterがなくなるそのときまで、誰のこともブロックしたくありませんし、コメントするならばスクショではなくきちんとリツイートしたいですし、DMは楽しいことに使いたいと思っています。

 世間から少しずつ寛容さが失われつつあるような気がする昨今、まことに微力ではありますが、最後までその流れに抵抗していきたいと考えている次第です。