今日は、いわゆるネット議論の勝ち負けについて、思うところを書いてみたいと思います。
そもそも勝ち負けで考えること自体が「議論」からは遠く離れており、テーマがあくまでも「ネット議論」であることを表しております。
ネット議論≠議論、という当記事の前提を、まずはご理解した上でお読みいただければ幸いです。
ネット議論、あるいは喧嘩
一応、穏便な言い方として「ネット議論」という表現を選んでいますが、その実情は喧嘩であろうと、私は考えています。
片面的な知識、謎のプライド、雑なマウンティング……そういったものでひたすらお互いを殴り合う、要するに口喧嘩ですね。
本当は「ネットバトル」と表記しようとしたのですが、Googleの検索フォームに入れてみたところ、それだとネトゲの対戦のほうが先にイメージされるようなので、ネット議論としてみた次第です。
以前、私は次のような記事を書きました。
論旨をざっくり言うと、ネットでの議論に「議論」としての体を期待するのは基本的に諦めたほうがいい、というものです。
あなたがどんなに「議論」の準備を整えていても、相手もそれを整えていなければ成立しない。しかしそのマッチングをネットに期待するのはとても厳しく、最初からそれは無理だと思っておくのが賢明だという話でした。
この記事は、読者を「ネットできちんとした議論をしたい人」「自分のやっている口喧嘩を議論だと思っている人」と想定した上で書いたものですので、上記のような切り口になりました。
しかし実際には、それ以外にも次のようなスタンスの人がいると思います。
「ネット議論が議論と呼べないことはわかってる。自分は元よりその『知的口喧嘩』を楽しんでいるのだ」
当記事は、このような人向けに書こうと思い立ったものです。
議論っぽい口喧嘩。それを趣味にしたい人は山ほどいる、というのが、長年ネットをやってきた自分の率直な印象です。
その多くは、それが「本当には知的ではない」ことを自覚しつつ、「でも知識や知能の発揮のしどころがないわけでもないよね。そこが自尊心をくすぐるんだよね」みたいな地点で楽しんでいるように見受けられます。
もしくは、「目の前にいる馬鹿に、己が馬鹿であることをわからせてやりたい」という純粋な苛立ちでしょうか。
いずれにせよ重要なのは、「議論」と違って、相手を叩きのめすことがそこでは明確に目的化している、という点でしょう。
私としては、そこで「そういうのはやめましょうよ」と言うつもりはありません。
世の中にはそういうことのできる空間も必要で、それが結構、人々の中に溜まっている精神的毒ガスを抜く結果に繋がっているのではないかと思うからです。
ただ、一つだけ主張したいことがあります。
それは、ネット議論の勝利の定義を「相手が黙り込むこと」だと勘違いしている人が結構いて、彼らがしばしば口喧嘩を見苦しいものにしてしまう、ということです。
相手が黙るとはどういうことか
熱く激しく言葉を投げあっていた相手が、ある時点で黙り込んで何も言い返してこなくなる。
それがどういう意味なのかは、そのときあなた方が具体的に何をやっていたのかによって異なります。
あなた方がやっていたのが「議論」であるなら、それは純粋な停滞です。お互いの知見を交わして、高みに向かおうとしていたところで、急にその流れがストップしてしまったわけです。
これは双方にとって損失であり、できれば「議論」の場では、そのようなことにならないよう努めるべきでしょう。
次に、あなた方がやっていたのが「ディベート」であるなら、これは競技ですから、沈黙はすなわち「次のターンに何も出せない」ということであり、敗北を意味します。
相手が黙り込んで何も言い返してこないなら、それはあなたが論理的な決定打を披露することに成功し、見事勝利したのだということになるでしょう。
では、ネット議論ではどうなのか?
これは私個人の見解の度が強いのですが――原則として、この場合に相手が黙り込むことは、双方の損失でもなければ、相手の敗北(=あなたの勝利)でもありません。
上に挙げた過去記事でも書いているのですが、ネット議論では「きちんとした論理」のやり取りが終始徹底されることはまずありません。
内容はまず間違いなく偏っているし、罵倒や皮肉に依存しすぎているし、何より、根拠を崩されてもべつの根拠を持ち出して結論を維持する人だらけ。
不死身の「議論的ゾンビ」がそこらじゅうにいる世界なのです。
つまり、ネット議論においては、何かを言い返したいと思っているけど何も言い返せない、という状況に置かれる人はほとんどいないのです。
「議論」や「ディベート」においては反撃として認められないような内容も、普通に反撃として成立してしまう世界なので、言い返したければ無限に言い返せる。
これが何を意味するか? ……良くも悪くも、次のことが導き出せるのです。
「ネット議論で黙るのは、飽きたときと相手を見捨てたときだけ」
そう、あなたが誰かとネット議論を繰り広げていて、その途中で相手が黙ったとき、それは相手があなたに何も言い返せなかったことを意味するのではなく、議論に飽きたか、あなたを見捨てたか、そのどちらかを意味しているのです。
それは「あなたの勝利」ではありません。
ネット議論の勝利条件とは
では、ネット議論に勝つとはどういうことなのか?
先に結論を言ってしまいますが――ズバリ「ギャラリーを相手より多く囲い込むこと」だと私は考えています。
つまり、ネット議論とはそもそもがギャラリー囲い込み合戦なのだ、ということになるでしょうか。
知識が豊富であることも、ワードセンスが優れていることも、相手の心理状態をよく把握できることも、すべては「ギャラリーを味方につける」ことのために費やされるのが、ネット議論です。
ですから、あなたの言葉の鋭さで相手が心理的・論理的にどのような状態に追い込まれていたとしても、ギャラリーの多くが相手の側についていたら、そこに有効性はありません。
舌鋒鋭いあなたが「不利」で、息も絶え絶えな相手が「有利」である、ということは、理屈ではあり得ることです。
言い換えるなら、こういうことですね。
つまりネット議論においては、相手に向かって話すこと自体が本質なのではなく、相手に向かって話している状態をギャラリーに提示して、「いかがでしょうか?」と問うところに、その本質があるのです。
これを考えるならば、ギャラリーのいない状況でのネット議論には意味がない、ということになるでしょう。
本当の「議論」をネット上で行える関係ならもちろん良いのですが、モノが「ネット議論」である場合、二人きりでいくら展開させても、決着など永遠につきません。
どちらかが飽きるか見捨てるかして、中途半端に終わるのがオチです。
今でいうと、Twitterのダイレクトメッセージなどが典型例になるでしょうか。
くれぐれも、あの機能を使って誰かとネット議論をするのはやめたほうがいいと、私は強く助言したいです。
100%の不毛を味わうことになるだけでしょう。
よくある利口ぶった馬鹿の振る舞い
さて、ここではオマケとして、私が巷のネット議論でよく見かける「ダサい話の運び方」を幾つか挙げておきたいと思います。
少なくとも私というギャラリーは、以下のような振る舞いを見たとき、その主の側に付こうとは思いません。
もしあなたがこれらを日常的にやってしまっているのであれば、「他人の目」というものをもう少し気にして、よりクールな言動を追求し、効率的に味方を増やすよう努めることをオススメしたいです。
- 馬鹿だと思った相手に絡みにいったくせに馬鹿さに辟易してみせる
- 相手に何かを認めさせたいのに、それを認めることが相手の恥になる流れを作る
- 相手が発狂している設定を作り、ろくな反論もせずなだめることに終始し始める
おわりに
今はもうやりませんが(その時間も気力もない)、昔は私も、暇に任せて旧2chでいろいろとやり合っている時期がありました。
私の場合はあまり勝ち負けに積極的ではなかったのですが、しかし高尚な「議論」をしていたかというとそれは怪しく、やはり「ネット議論」に属する行為だったと思います。
平気で5時間とか6時間とか、続けていましたね。今にしてみると、あのエネルギーはいったいどこから湧いていたのか……自分で自分に苦笑してしまいます。
ただ、それらのすべてが無駄だったかというと、そうでもなかったというのが現在の実感ですね。
およそネット上で人と人が揉めるパターンの、ほぼすべてを見てきて、その一部を自分でも体験したことで、とりあえずネットで交わされる言葉のドッジボールについては、いかなるものにも動じなくなりましたので。
変なプライドもすっかりなくなって、もうどんどん自分の間違いを認めていっちゃいますよというモードで、現在は生きております。
やっぱり、人はどこかの時期で「無駄に尖ったコミュニケーション」を経ないと、バランスの取れた地点に立つことができないんですかね?
そういう観点で言うと、若い世代のネット議論は温かい目で見ることができますね。
逆に、若い頃にそういうのをやり損ねて、いい歳になってから、こじらせたプライド丸出しでやり合っている人を見ると、「ああ、この人は然るべきときに然るべき悟りを得られなかったんだな」と、ちょっと哀しい目を向けてしまいます。
いずれにせよ、ネット議論において、相手を黙らせることをゴールと勘違いするのはやめておきましょう。
それが今回の、私からのメッセージです。
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