天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

【ファッション】何を着ても似合わない呪いとの付き合い方

 ファッション、という言葉を聞いたときの反応は様々だと思います。

 楽しいことがいろいろ浮かぶ人が多数派なのでしょうか? わかりませんが、しかし少なくない数の人が、それとは逆に身構えたり、引いたりするのではないでしょうか。

 今日は後者の極北について、私自身の身を削るかたちで少し書いてみたいと思います。

 

 

この世に似合う服がない

 先に断言してしまうのですが、私には似合う服というものがこの世に存在しません。

 外出時に着ていく服であれ、部屋着であれ、各シチュエーションにおける制服的なものであれ、およそ「服」と呼ばれるすべてのものと、相性が悪いのです。

 いや相性といってしまうと、服の側にも問題があるように響いて服に失礼かもしれませんね。

 私自身の持つ特殊な属性のせいで、ありとあらゆる服が「私をフォローしきれない」のだ、と言うのが、より適切でしょうか。

 

 とにかく、何を着てもダサいのです。

 

 今でこそ慣れてしまっていますが、多感な時期はそれなりに苦悩しました。

 まあ以前書いたように、幸いにも(?)私は早いうちにモテを諦めていたので、「モテたいのにモテない」という袋小路へ行くことはなかったのですが、それでも自分が別格にダサいというのはしんどいものです。

 

www.tengoku-teihen.com

 これが自分の思い込み、自意識過剰に過ぎなかったのであれば可愛い思い出とも捉えられるのですが、実際にいろいろ言われてきましたからね……。

 特に女子はそういうのを結構ズバズバ言うもので、出かけ先の会場で後ろに座った見知らぬ女子グループに思いっきり馬鹿にされたり(当人達はこちらには聞こえていないと思っているようでした)、学校のサッカー大会でユニフォームに着替えたら、クラスで一番性格が良いとされる女子から「ホント、何着ても似合わないよね……」と心底哀れまれたり。

 モテたいか否かは関係なく、こういうのはつらかったです。

 

ファッションオタクの上から目線

 というような話をネットですると、必ず定番の指摘が入ります。

「何を着ても似合わない人なんて、いるはずがない!」

 そう、ファッションオタクの方々です。

 彼らには服というものに対する、何と言いますか……ある意味での盲信がありまして、そのパワーが通じない現象など断じて認めない、というスタンスなんですよね。

 だから主張してくるわけです。大事なのは選び方で、単にそれができていないだけなのだと。

 

 率直に言って、彼らには現実が見えていません。

 ときどき、そういう人達と(コミュ障にもかかわらず)直に会ってみたくなることがあります。

 彼らの前に私という人間を差し出して、「さあ、この人物に似合う服を見つけられるものなら見つけてみたまえ」とやってみたくなる。

 恐らく彼らはしばらく奔走したり考え込んだりした末に、ギブアップするか、さもなくば逆ギレ気味にこちらの素材としての筋の悪さをなじってくることでしょう。

 

 あるいは、そもそもの始めから私のような人間に敵対的なファッションオタクというのも存在します。

 彼らは「服全般と相性の悪い人間」が存在することを認識した上で、愛する服を守るために、こちらを口撃してきます。

 自分の好きなブランドやコーディネートに私のような人間が手を出すことを嫌い、最終的には「ファッションに謝れ!」というところまで到達する。

 

 個人的には、こういう人達のほうが「少なくとも理解はされている」という意味で接しやすいかなという感覚ですね。

 すでに自分の属性に関するすべてを受け入れているので、彼らが謝れというならいくらでも謝ることができてしまいます。

「ファッション様、どうもすみませんでした」

 

 まあ、どの分野でもオタクというのは良くも悪くも信念があって熱いということです。

 ちなみに「オシャレな人」と「ファッションオタク」の境目がどの辺にあるのかというのも興味深い話題なのですが、今回それを掘ると話が脱線してしまうので、いずれ機会があれば記事にしてみたいと思います。

 

清潔感は高い総合力の産物

 さて、ではファッションオタクではない「普通の人」はどのような反応をするか?

 これも様々なのですが、ある意味もっとも無自覚な攻撃力に満ちているのが、次のような言葉です。

「服なんて、清潔感があればそれでいいんだよ」

 

 もしあなたが(失礼ながら)私と同じ人種であるなら、今非常にタチの悪い、地獄のようなワードが炸裂したことに「うわ出た!」と思ったことでしょう。

 そう、「清潔感」

 上記のようなことを言う人は、この清潔感というものを、やる気さえあれば誰にでも出せるものと思い込んでいるんですよね。

 しかし実際はそんな単純なものではありません。

 清潔感とは、一定以上の総合力から生まれる好意的印象のことであり、従って「外見的に低スペック」と「服が似合わない」を両方兼ね備えている人間には、命を賭けても出すことのできないものなのです。

 

 この言葉の一番タチの悪いところは、「清潔」という単語が使われているところです。

 清潔になるのには特別な才能は必要ありません。手が汚れているなら石鹸で手を洗えばいいだけですし、汗臭いならお風呂に入ればいいだけです。

 これほど簡単なものもない。

 この、簡単に達成できる行為を表現する言葉を、一定の資質があって初めて可能となるものを表現するのに使うようになったことが、悲劇の始まりなんですよね。

 そのせいで、まるで清潔感を出すことが簡単なことのように扱われるようになってしまった。

 

 それに対して、私のような人間はこう言うしかないわけです。

「私にできるのは清潔になることだけです。清潔感を出すことはできません」

 

持たざる者のマインドセット

 これはもう、生命そのものに貼り付いた呪いのようなものであると考えるべきなのだと私は思っています。

 生まれながらに背負った業であり、泣いても笑ってもどうにかなるものではない。

 しかも恐るべきことに、この「服が似合わない」という呪いはしばしば、「結果を努力に反比例させる」という性質を発揮します。

 つまり、オシャレしようと100の努力をすると結果が-100、200の努力をすると結果が-200になってしまうのです。

 頑張ったぶんだけダサさが強調されることになる。

 

 世の中、努力で結果を動かせる範囲というのは、分野や各人の性質によってまったく異なるものですが、こと「服が似合わない」という呪いに関して言えば、努力によって改善される余地は一切ありません。

 ファッションにおける才能の介在は圧倒的で、世間の人達が言う「オシャレを頑張る」は、頑張れば結果が出る人間として生まれてくることがまず大前提にあるのです。

 彼らは自分が生まれ持ったその「まともな資質」を全人類が持っているものと勘違いしている。だから私のように様々な経緯の末に「一切頑張らなくなった」人間に対し、平気で差別発言をカマしてくるんですよね。

「お前がダサいのは単なる努力不足。100%お前が悪い(だから我々がお前を公然と嘲笑することも当然許される)

 

 もしあなたが私と同じ「持たざる者」であるなら、こういった世間の風潮を「静かに受け入れる」ことと、「モテることはすっぱり諦める」こと、この二つはマインドセットとして持っておくべきだと思います。

 ここで風潮に逆らおうとしたり、頑張れば自分にもこの分野で何か得られるものがあるのではないかと夢見たりするのは、はっきり言って時間とお金の無駄です。

 とりあえず、着飾る世界に一矢報いようとするのは諦めましょう。

 人生、他にもいろいろフィールドは用意されていますから、そちらにリソースを費やすことをお勧めする次第です。

 

おわりに

 今日の記事は、理解できない方にはまるで理解できなかったかもしれません。

 ここまで読んでくださった方の中にはまだ「服そのものが似合わない人間なんていないだろ」と考えておられる方が、割といるんじゃないかと、正直思っています。

 私としては、そういう方々を「説得」するつもりはありません。

 ただ、ある程度まとまったかたちで「こちら側の言い分」を残しておきたいなと思ったので、これを書かせていただきました。

 単なる事実以外を書いたつもりはないので、その点よろしくお願いいたします。

 

 ところで、以前Twitterで知った漫画なのですが、『服を着るならこんなふうに』という作品があって、けっこう人気みたいなんですよね。

 これを知ったとき、どんなことが描かれているのかちょっと読んでみたくなったのは確かなのですが、同時に次のようなことも思ってしまいました。

「これ、もう何巻も出ているけど、そんなに描くことがあるということは、まともに服を着るというハードルがめちゃくちゃ高いってことなんじゃないのか……?」

 

 他にもオタク向けのファッション指南本とかも幾つか世にでており、こういう初心者向けの本ってどんなことをどんなニュアンスで書いているんだろうな――と疑問に思いつつ、まあ自分は実践しないからいいけど、と放置し続けてきた次第。

 

 どんな内容なんでしょうね。

『服を着るならこんなふうに』はいつか1巻くらい読んでみようかな、と思っています。

 興味のある方は下からどうぞ。オタク向けファッション本も貼っておきますね。