天国的底辺

二次元、創作、裸足、資格試験、その他諸々についての思索で構成されたブログ

モテないことで見下されるのは嫌だがべつにモテたくはない非モテ

 今回は「モテないこと」について、そうでない人があまり想像しないかもしれない価値観を少し書いてみたいと思います。

 良くも悪くも、自分語りの要素をけっこう多めに含んでおります。

 

非モテの自己紹介

 いきなり告白しますが、私はいわゆる非モテです。

 とりあえずヘテロ男性をやっているので、対象を女性に絞って語りますが、これまでの人生で一度として女性に好感を持たれたことはありません。

 従って当然ながら、そっち方面の体験は一切したことがありません。お付き合いをしたこともありませんし、キスとも無縁でやって来ましたし、母親以外の女性の手を握ったこともありません。

(ちなみに手を握ったこともないと言うと「学校でフォークダンスしたことあるだろ」という突っ込みが来がちなのですが、私はフォークダンスの経験もないので、本当の本当に手を握ったことがないのです)

 

 バレンタインに「普通の意味での」義理チョコをもらった経験もありません。

 正確に言うと小学生時代に2度ほどもらったことがあるのですが、一つはクラスのとある女子が男子全員にひと粒ずつ配ったもの。もう一つは、登校班の班長をやっていたとき、班にいたダウン症の女子の母親から「いつもお世話になっているから」ともらったものなので、意味するところがちょっと違います。

 

 このように、私はまあ女性とはまったく縁のない人生を送ってきました。

 

非モテはどう扱われるか

 最近は世間の未経験率の意外な高さなどが注目され始め、それ自体はそんな特殊なことでもないという認識を持つ人も増えてきた印象ですが、やはりマジョリティは私のような存在を異端視します。

 基本は「見下す」「憐れむ」「怖がる」の3通りでしょうか。

 

「見下す」というのは、相手をモノにする、関係を育む等の行為を重要な人生経験と捉えた上で、それを満たしていない人間を「すべきことをしていない人間以下の存在」のように見て、馬鹿にしたり軽蔑したりすること。

「憐れむ」というのは、一連の行動に必要な能力を持っていないことを人生における最大級の悲劇と捉えた上で、それを為し得ない人間を「何よりも可哀相な存在」のように見て、(これもやはり上から目線ですが)同情の目を向けること。

「怖がる」というのは、そういう経験がないことを「まともに人とやっていく能力がない」と捉えた上で、それに該当する人間を「何をしでかすかわからない危険な存在」のように見て、あからさまに警戒することです。

 

 いずれのパターンにも共通するのは、その手の感情に対する至上主義的姿勢ないし、それに準ずる価値観です。

 そこでは好きな相手との諸々が人間を(少なくともその重要な一部分を)作るのだということ、あるいは人間ができていれば誰かとくっつくものだということが常識となっており、その枠に当てはまらない人間達に対し、何らかの形で異常性を見出すわけですね。

 人として何かが狂っている、劣っているからそれができずにいるのだろうと。

 それは彼らにとってとてもとてもとてもとても変なことで、ネットでこういう話題が出たりすると「どういう人生を送っていたら経験なしで来られるの?」という質問が、煽っているような素朴な疑問なような、どちらとも取れるニュアンスで放たれたりもします。

 

非モテは多種多様である

 そのような世間の風潮に対して、非モテがどう考えているかですが……。

 結論から言いますと、これは人によってまったく異なります。

 非モテというのは文字通り「モテない」ことだけを条件に括った一群のことなので、そこに至った原因ですとか、現状についてどう思っているのかですとか、そういったことは千差万別、非モテ同士でも理解が成立しないことは多々あるわけです。

 

 なのであなたがもしこの記事から「非モテ全般についての」何かを得ようと思ったのであれば、むしろ「それが至難であること」を学んでいただければと思います。

 この記事で私が書こうと思っているのは、あくまでも私という一人の非モテの価値観についであることを、ご了承ください。

 

私のスタンスは「興味なし」

 ……と、長い前置きをした上で、私のモテに関するスタンスを少し書いてみます。

 これも結論から述べてしまいますが――この記事のタイトルの通り、モテないことで特別な眼差しを向けられることは好きではないものの、じゃあモテたいかというと、そういう気持ちはまったくと言っていいほど湧いてきません。

 

 非モテを見下す人達にしばしば見られる価値観として、「人は必ず他の誰かにそういう感情を抱くものだ」というのがあります。

 それがあるから、非モテのことを「達成できない人間」とみなせるわけですね。

 ところが私の場合、これまでの人生で誰かを好きになったことがまったくありません。

 いわゆる「初恋」がまだなのです。

 従って、「誰かをモノにしたい」という願望が生まれたこともなく、当然ながらそれに沿った行動を取ったこともない。

 

 私の場合、その原因は恐らく、小学生の低学年の頃からすでに、女子からのウケがあまり良くなかった……というか、微妙に馬鹿にされていたことにあるのだと思います。

 それゆえに思春期が来る前に、「自分には女の人から好かれる道はないな」と悟ってしまった。

 どうやらそのまま、脳みそのそういった感情を司る部分が機能停止してしまったようなのです。

 

 性的な欲求については人並みにあります。

 しかし「誰かを好きになる」というのがわからない。

 ゆえに「誰かに好かれたい」というのもわからない。

 その辺が高じてか、欲求を風俗のような「実際に女性に触れる」手段で満たしたいと思うこともない。

 ただし「誰にも好かれないということで見下されたり警戒されたりする」のは好きではない。

 

 そんな大人ができ上がりました。

 

アセクシャル?

 日本ではほとんど知られていませんが、海外ではLGBTなどと同様のマイノリティー概念として、アセクシャルというものがあります。

 日本語に訳すなら、無性愛者

 定義は割と幅広くて、誰かを好きにはならないが性的な欲求は抱くという人も当てはまるし、その欲求すらないという人も当然当てはまります。

 

 もしかしたら私も一種のアセクシャルなのでしょうか?

 あまりそこに自分を当てはめたい願望はないのですが、見る人が見ればそういうことになるのかな、と考えることもしばしばあります。

 日本にこの概念が浸透した暁には、面倒よけに使ってしまうのも一つの生き方かもしれないですね。

「あ、実は私、アセクシャルなので……」みたいな。

 

普通の人々に言いたいこと

 逆に私から世間の「非・非モテ」の皆さんに何か言うとしたら、真っ先に思い浮かぶのは次のようなことですね。

「経験のあるクズや無能を山ほど見てきたことを踏まえるに、それが人にとって大切なことであったり、まともである証であるとは到底思えません」

 

 もし世の中の経験済みの人達(特に子供のいる人達)が会う人会う人みな立派な人物であったなら、私は今頃相当に焦っていたと思います。

 何としても誰かと愛し合わないと、ゴミみたいな人間のまま一生を終えてしまう、と。

 しかし、他のことでは何かと劣等感を持っていて、何とか現状を打破しないと人生くすぶったままだなあとか思っている私ですが、こと恋愛に関しては、まったくそのような焦りを感じないのです。

 何故なら、誰を見てみても、「恋で成長するのは恋のスキルだけ」にしか思えないから。

 

 ……そんな風に思っているのですが、どうでしょうね?

 私の人を見る目にバイアスがかかっている可能性もないとは言えないので、「誰かを好きになるのは素晴らしいぞ! 人間としてめっちゃ成長できるぞ!」という意見の方は、その辺について「おお、なるほど確かに!」と思えるようなコメントをくださると嬉しいです。

 ただし、大抵の主張はすでに見聞きしてきた上で私はこの記事を書いているので、よほど鮮烈なものでないと微動だにしないとは思います。あしからず。

(ほとんどの場合、それで成長したという人は、「たまたま成長のきっかけがそれだった」のであって「必須の通り道だった」わけではないのです)

 

おまけ

 しかしまあ、誰かとのイチャイチャと人間性の真の関係がいかなるものであれ、私がそれをできることは一生ないと言えるでしょうね。

 仮にいきなり脳みその回路が活性化したとしても、低スペックだし、今さらなあ……。