今日は、努力することによって悪いことも起き得るんですよ、というのを書いてみたいと思います。
べつに「アンチ努力」というわけではないのですが、もしかしたらそんな風にも取られるかもしれないなあ……そのあたりについて、こちらから制御しようのない部分の解釈はお任せしたいと思います。
努力するということ
先日、努力というテーマで次のような記事を書きました。
詳しくは読んでいただくとして、掻い摘んで言うと、努力というのは単に大変だというだけでなく、意味のあるものにする難度が結構高いものですよ、という内容です。
この記事では「頑張らなきゃなあ」というニュアンスを立てていたので、そこにケチがつくようなことにはあえて触れませんでした。
なので、努力によって得られるもののみを想定した構成になっており、ある意味ではキラキラした内容だったかもしれません。
しかし実は私は、努力するということについて、常々こう思っていたりします。
「努力って、ぶっちゃけあんまりやると人間的に弊害が出てくるよな」
一般論として、努力は「時間・労力」と引き換えに「自分好みの結果」を獲得する行為で、その副産物として、研鑽によって人間性も磨かれる、みたいなことになっていますよね。
しかし個人的には、その「人間性が磨かれる」というところにおおいに疑問を感じておりまして、それどころかむしろ「努力しすぎると人間性が歪んでしまう」のではないかと考えているのです。
どう歪むのか?
細かく定義していけばキリがなさそうですが、主に次の3種類が「努力病」とでも言うべきものとして世にはびこっているというのが、私の観測です。
弊害1:軽蔑する対象が増える
先述の過去記事でも言及しましたが、努力というのは基本的に「やりたくない作業に付けられた呼称」なので、つらいものです。
そのつらさを押し切って努力を積み重ねるというのは大変なことであり、そのこと自体は称えて然るべきものだとは思います。
問題は、努力している人間がしばしば、自分より努力しない人間をデフォルトで軽蔑するという現象が確認できることです。
努力している人間の足を引っ張るような人間を邪魔に思うのは当然として、そうではない「ただ努力していないだけの善人」まで見下しにかかる。
努力をすればするほど、世の中の多くの人間を軽蔑するようになっていく――その沼にハマってしまう「努力家」が少なからずいるんですよね。
そういう人達が忘れてしまっているのは、努力というのが「自分のために、やりたいからやるもの」であるという感覚です。
自分は努力したいから努力している。あの人は努力したくないから努力していない。
お互いに生きたいように生きているだけなのだから、そこに見下す要素など本来はあるはずないじゃないですか。
そういう簡単な整理ができなくなっているのは、私の言語感覚では「病的な状態になっている」と表現せざるを得ないんですよね。
弊害2:詳しくないことにまで自信が付く
努力をして結果が伴ってくると、それなりに自信というものが付いてきます。
それはごく自然なもので、まあ私は個人的に自分に自信たっぷりの人というのは苦手なのですが、決して悪いことではないと思います。
ただ、その自信がしばしば、努力したわけではない「専門外の領域」にまで及んでしまうことがあるんですよね。
そうするとどうなるかというと、その人は何も知らない分野について、自信たっぷりに頓珍漢な切り込み方をするキャラに落ちてしまうのです。
このもっともわかりやすい例が、ワイドショーのコメンテーターでしょうか。次にわかりやすいのが、引退して事業を起こして大失敗した元一流スポーツ選手とかですね。
私が前者で思い浮かべるのは、最近Twitterでやらかしまくっている作家の室井佑月さん。後者で思い浮かべるのは、現役引退後にゲーム会社を立ち上げ、いきなり超大作を開発しようとして1億ドル超の資産をすべて失った、元MLB投手のカート・シリングさんです。
弊害3:最強の要素「運」を否定しがちになる
人生を輝かせるのに一番大切なものは何かと言ったら、これは文句なしに「運が良いこと」です。
まず、どれだけ経済的・人間的に恵まれた家庭に生まれるかというのがもう強烈に運ゲーですし、そこで持って生まれた才能というのも運の良さによってもたらされるもの。
その後の様々な節目においても、何のアクシデントもなく無事に通り過ぎるためには(ある程度は準備と注意次第だとしても)幸運が絶対的に必要になります。
しかし努力、努力、努力という人生を送っている人は、もちろん全員とは言いませんが、これを軽視しがちなんですよね。
というより、自分の積み重ねているつらく苦しい努力を肯定するために、そのことをカウントしないようにしている、というのが正しいでしょうか。
その結果、運について語る言葉がちょっとおかしくなるのです。
特に大成功を収めた人の語る半生にはその傾向が強く見られ、「要するに運が良かった」というだけの話が、巧妙に(というと言葉は悪いですが)努力の賜物という風にすり替わっていることが多い。
「常日頃から努力していたから、チャンスが巡ってきたときにそれを掴むことができたのだ」などというといかにもそれっぽいですが、その演説台の下には、同じ努力を同等以上に積み重ねて失敗した人々の屍が大量に転がっているわけです。
努力量を調整すべき?
こういうことを考えていると、人は度を越して努力すべきではないんじゃないか、みたいな発想になることもよくあります。
私達が「自然に在ることのできる」領域はそれぞれ決まっており、そこから外に出ようともがくような努力をすると、自分の核の部分がどこか歪んでしまうのではないかと。
もちろん、大きなチャンスが目の前にあるときに命懸けの努力をしたくなるのはわかりますし、そういう人がいなければ世の中はここまで進歩しなかったわけで、恩恵を受けておいて何を言う、と責められると反論は難しいのですが……。
それでも、「努力病」の重さについて、考えずにはいられないのです。
少なくとも、努力にそういう負の側面があるということはよく理解した上で頑張るのが良いのではないかと思います。
頑張れば頑張るほど自分が磨かれる、という発想を、あまりピュアっピュアなかたちで持っていると、変な人間になってしまいやすいのではないかなと。
おわりに
まあ、こう言いながらも、私だって自分なりにはいろいろ頑張ってはいます。
今年の司法書士試験も終わり、ほっと一息つきたいタイミング。でも次から次へといろいろな課題が生活上に出てきて、否が応でも努力はしなければならない。
それはすごく重要なことなのですが、だからこそ今回はこういう記事を書いてみました。
……ブログのアクセス数を増やすには「検索してやって来た読者の疑問を解消する、役に立つ記事を書くこと」が鉄則だそうですが、この記事は誰のどんな疑問を解消するのでしょうね?
その辺ちょっと不安なのですが、あなたが何かをこの記事から得ることができたのであれば幸いです。
オチが思いつかないので、ここまでに。