ネット上には、非モテについて語られた記事がたくさんありますが、そのほとんどは「いかに非モテから脱却するか」といったテーマであるように観察されます。
それ自体はもちろん悪いことではありません。そういう記事に需要があるからたくさん生み出されているのでしょうし、モテたいという気持ちにケチをつける必要はまったくありませんから。
しかし、非モテをやっている人間のすべてが、非モテではなくなることを望んでいるかと言うと、そんなこともありません。
自動的にモテるのならば、それに越したことはないけれども、何かしらのコストを支払わなければならないのだとするならば、べつにモテなくてもいいよ――そう考えている人も、それなりにいるはずなのです。
今日はそんな人たちのために、非モテが非モテのまま、毎日を平穏に生きていくためには、どのようなことに気をつければ良いのか、ということについて、私なりの見解を語っていきたいと思います。
とりあえず、5ヶ条の形式をとりました。この5つを守っていれば、たとえ非モテであっても、恐らくはあまり抑圧を感じることなく、人生を謳歌することができるのではないかと思います。
それでは、少しのあいだお付き合いください。
その1:不機嫌を表に出さない
一昔前に比べれば、人それぞれ異なる生き方があっていい、という考え方がだいぶ浸透してきたとは思います。
しかしそれでもまだ「このように生きるべし」のような抑圧はそれなりにあって、そのことで非モテの人達は、何かと気分を害することもあるのではないかと思います。
私ももちろん(?)非モテの一員なので、その辺りの皮膚感覚についてはバッチリ共有できるつもりです。
しかし、よほどのことがない限り、非モテは自分の感じた不機嫌を表に出すべきではありません。
これは、一般的な意味でのマナーを越えて、巡り巡って自分を守るために必要な防衛手段として提言するもの――いわば忠告のようなものです。
非モテの社会的な立場は、どのように解釈しても弱いものです。
そして、その弱さに目ざとい人種というのが、一定数いる。
そういう人達は、こちらと直接の関係は何もないはずなのに、強引に干渉してきて、非モテ要素に対してあれこれ言及しようとしてくるんですよね。
過剰な自意識をたしなめる言葉として、「人はお前のことなんか見ていない」というのがありますが、あれはぶっちゃけ「普通の人用」の言葉です。
人はある意味では、他人のことをよく観察している。特に、自分より下に位置すると考えられる人間のことを探しては、何かとマウントを取って、良い気分になろうとする――そんな動きはそこらじゅうで観測できる。
非モテはそういう人種にとって、格好のターゲットなわけです。
そのような状況下において、不機嫌なときに不機嫌をそのまま表に出してしまうと、それは隙になります。
上記のような人間達は、そのような態度を逃さずに捕まえて、その非モテが「人としていかにダメであるか」を、説教と罵倒と嘲笑の混じった言葉で、まくし立てるように展開してくることでしょう。
そうなってしまったら、その場において非モテが何かを言い返す余地はありません。
従って、非モテは常日頃から上機嫌である必要があります。
原則としていつもニコニコしていることを忘れず、返事は快活に。そして一切の言動について、ジメジメとしたところ見せないよう努めるのです。
なにぶん非モテは宿命的なものですから、そのようなことを徹底したところでモテるようにはならないのですが、非モテとしての平穏を手に入れるには、こういった努力が必要不可欠になります。
もしそのような態度をとることが、意地の悪い連中に何かを譲ってやったような感じがして気に入らないという人は、次のように考えると良いのではないかと思います。
「相手に罵倒する隙を与えないことは、相手をイライラさせるとても有効な攻撃なのだ」
このように考えれば、隙あらば非モテのことを嘲笑しようとする人達に対しても、丁寧な姿勢を保つことができるのではないかと思います。
その2:異性を事前スルーする
生きている限り、どうしても異性との接触は避けられません。
例えば学校ならば、隣の席に異性が座るという現象は当たり前のことですし、社会に出てからも、仕事上どうしても異性とコンタクトを取らなければならない状況は出てくるでしょう。
そのようなものは仕方がないので、上記の「上機嫌」を徹底することで、何とかやり過ごしてください。
しかしそれ以外の、その気になれば回避することのできる関わりについては、徹底的にその方向に実践するよう心がけることで、非モテならではのリスクを大きく下げることが可能になります。
いちばんわかりやすいのは、道を歩いていて、向こうから異性のグループが歩いてきたというような場合ですね。
例えば私なら、向こうから女子高生のグループが4人とか5人、横一列に並んで歩いてくるというのは、一種の危機的状況です。
すれ違う瞬間にこちらのことを観察され、すれ違ってしばらく経ってから、私の「キモさ」をネタにして、彼女達はひとしきり盛り上がるのではないか――。
そのようなことを考えると、少なからず緊張が走るわけです。
これに対する最も良い対策は、そういう対象を見つけ次第、大きく迂回することを選ぶことです。
上記の例で言いますと、私を発見する前の彼女達は、良くも悪くも自分達のコミュニケーションに浸っていますから、こちらのアクションについてはあまり感知しません。
それを利用して、事前に大きく道を外れ、彼女達とすれ違うときには何メートルかの距離が生まれているようにするのです。
ここで大事なのは、いかにわざとらしくならないか、を追求することです。
迂回している、ということが周囲から見てあからさまだと、対象となる女子達には気づかれずとも、それ以外の人達からは「なんだあいつ」のように思われるかもしれません。
それは避けるべきなので、徹底して自然であることが望ましいのです。
――ここで話したことは物理的な意味での回避ですが、これと同じことを、精神的、文脈的な意味においても実践することで、非モテは異性から何やかや言われることを、かなりの割合で避けることが可能になります。
繰り返すようですが、非モテは原則として、何をどう頑張ろうが、異性から良い評価をもらうことはありません。
ですから、「どのように良く接するか」を考えるよりもまず「そもそもどのようにすれば接することなく事が済むか」を考えるべきなのです。
この辺りをしっかりやっておくか否かで、非モテの人生の温度はだいぶ違ってくるのではないかと思います。
その3:着実に成長できる分野に打ち込む
世の中には、異性とのお付き合いによって人は大きく成長できる、と主張する人たちがおり、彼らの一部は、そもそも異性と付き合うことができない人達のことを、ハナから駄目な人間だと見下しています。
私に言わせれば、そのような偏見に満ちた態度をとること自体、「異性との付き合いを経験したところでその程度の人間にしかなれない」という証明に他ならないのですが、ともあれそのような人間達はそれなりにいて、非モテにとっては障害物のように機能します。
そのような風潮に押し潰されないため――べつの言い方をするならば「舐められないようにするため」に、非モテは何か、自分との相性の良い分野を見つけて、それにとことん打ち込み、そこから成長していくべきです。
そういうことを意識的に行うことで、副産物として、より大きな収入や、社会的地位を手に入れることができるかもしれません。
また、着実に成長できる分野に打ち込むことは、精神の安定にも繋がります。
自分は決して「奴ら」の言うような成長できない人間ではない、ということが確認できるのもさることながら、物事の奥深くから楽しみを見出すことがもたらす喜びというものもあります。
そういうことをうまく自分の人生に取り入れれば、むしろ普通にモテている普通の人達よりも、充実した毎日を送ることだってできるかもしれません。
私はあえて断言しますが、モテないことで、異性と付き合えないことで、まともに成長できない人間になってしまうという事は決してありません。
取り組み方次第で、非モテであっても、様々な方向から大きく飛躍する事は十分に可能なのです。
非モテは周囲の声に惑わされることなく、そういう道を積極的に進んでいくべきでしょう。
その4:性的嗜好を満たす趣味を持つ
上記を意識することで、やり甲斐のようなものを得られたとしても、どうしても残る問題が一つあります。
それが、性的欲求の問題です。
いわゆるアセクシャル(無性愛者)であれば、この点は何も問題がないのですが、そうではない場合、いわゆる「性欲を持て余した」状態に陥ること避けられません。
そこでどうするか?
答えは簡単です。性的嗜好を満たしてくれる趣味を、一つでも二つでも、幾つでもいいですが、持っておくことです。
それは単純に、成人向けサイトを自分の巡回ルートの中に入れるのでも構いませんし、他に特殊性癖のようなものを持っているのであれば、それに関する活動を積極的に行うのも悪くないでしょう。
いずれにせよ、「これだけの環境を構築してしまえば、べつにパートナーとか必要ないよな」と思えるような状況を、作ってしまうのです。
世間一般の空気として、そういうのは「いかがわしいこと」とされています。
しかし私の考えでは、そういったことはむしろ、クリーンな人生を全うする上でとても有効なものです。
ちょっと話はそれますが、私は個人的に二次元オタクであり、世界の犯罪率の高い地域にオタク文化を持ち込んで、徹底的にオタクを増やしてしまえば、その地域の犯罪率は劇的に低くなるだろうと考えています。
そういうのを確か「代理満足」というのだったと記憶していますが、これの力は本当に大きい。
何か世の中に不満のある人は、まずはとにかくオタクになってしまえばいいのに、などと考えているのが私であったりします。
閑話休題。
現代においては、性的欲求を満足させるために実在の人間が必要だというのは、もはや古い考え方だと私は思っています。
その意味で言うと、この問題における非モテの立場は、そうではない人と比べて、たいして変わらないということになります。
要するに非モテの人達は、実在の異性を捕まえることができないという点においてのみ劣っているのであって、そこに絶対性がないのであれば、その劣り方もまた、決定的な問題ではなくなるからです。
世の中は良い方向にも悪い方向にも変化していますが、少なくとも成人向けコンテンツの充実という点に関しては、95%くらいは良い方向に変わったなと私は考えています。
お金がなくても、それらを堪能することは十分に可能ですからね。
ある意味、性的欲求こそが、あらゆる要求の中で最も安く満足させることができるものであるとすら言うことができるでしょう。
昭和の時代には、まったく想像すらできなかった状況だと思います。
その5:子供のいる人に敬意を払う
往来を歩いていると、子供連れの家族に出会うことが必ずあるでしょう。
今は少子化の時代なので、昔に比べるとその割合は減ったかもしれませんが、それでも「子供連れをまったく見たことがない」という人はさすがにいないはずです。
そんな人達を見たときに、非モテとして、とても大切だと思うことがあります。
それは、子供を持つ親達に対して、心から敬意を払うということです。
自分の子供を持つ、というのは、非モテにとっては決して叶わぬことなので、それができている人たちに対して、どうしようもない劣等感を抱いてしまうことがあります。
それをあまりにこじらせてしまうと、不特定多数に対する制御できない憎悪となり、とても生きづらくなるばかりでなく、最悪の場合は何か事件を起こしてしまうこともないとは限りません。
そういうのを回避するために大事なのは、子供を持つこと、子供を育てることが、とても大変なことであり、ある意味では世の中にとって必要な「犠牲」でもある、ということを認識することです。
多少の語弊はあるかもしれませんが、彼らのことを「世の中のために未来の人材を育ててくれている人達」のように解釈するのです。
その途端、子供連れの家族に対する見方は大きく変わるでしょう。
彼らは非モテも含めたすべての国民のために、将来この国を支える人間を、汗水たらして働きながら、一生懸命に育成しているのです。
非モテも将来必ず、何らかのかたちでその子供達のお世話になることでしょう。その点について、何のコストも支払っていないのです。
これを「お得である」と考えるならば、気分はだいぶ晴れやかになるのではないでしょうか。
「将来の土台を作ってくださってありがとうございます。お世話になります」
このように心から感謝をすることで、対外的な振る舞いにも変化が起こり、冴えない非モテであるという根本的な部分を除けば、周囲の人間に良い印象を与えることに成功するかもしれません。
今や子供は貴重な存在です。これだけ子供を持つことに不利な環境において、それでも子供を作ってくださった人達に、私は心からありがとうございますと言いたいですね。
おわりに
以上、私が非モテに必要だと思う心構えを、5つ挙げてみました。
これらをきちんと実践していれば、あくまでも非モテという枠の中での話ですが、人生はそれなりにまっとうな輝きを放つのではないかと思います。
異性からの評価が良いものになることは決してないでしょうが、世の中の半分は同性です。
その同性からの印象を少しでも良いものにすることができるのであれば、それに越したことはないでしょう。
そのためにも、ここに挙げた5つの項目は、役に立つのではないかと思います。
一人の非モテとして、私は「非モテのまま幸せになる」ことをとことん追求しています。
無理をしてまでモテる必要は無い。そんな無理を重ねてしまうと、心が疲れてしまって、逆に目の前の風景がくすんだものになってしまうかもしれない。
そのように考えているわけです。
あなたが非モテだとして、もしどうしてもモテたいと言うのであれば、もちろん私にはそれを止める権利はありません。
しかし、そんなことでそこまで頑張りたくないと思っているのであれば、それもまた一つの選択肢であるということを積極的に肯定しつつ、当記事に挙げたことを私は強く推奨したいと思います。
非モテだって「良く生きる」ことができるのです。私はそれを今後もずっと、寿命を迎えるまで実践していきたいですね。
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