文章を書いていると、いつか必ず(?)ぶち当たることになるのが、表記ゆれの問題です。
表記ゆれとは、簡単に言うと、同じ言葉が一つの文章の中で異なるかたちで表記されていること。
例えば「ひらがな」と「平仮名」、「プリンタ」と「プリンター」が同じ文章の中で両方使われているとき、その文章には表記ゆれが発生していると言えるわけです。
この記事では、そんな表記ゆれについて、世間の風潮に対して個人的に思うこと――特に「抗いたいこと」について、ちょっと書いてみようと思います。
「表記ゆれって何?」状態だった人も、今後文章を書くうえで参考になる部分もあるかと思いますので、よろしければ最後までお読みいただけると嬉しいです。
表記ゆれは「悪であり統一すべき」とされている
まず話の大前提として書いておくべきなのは、一般に表記ゆれは悪であり、表記は常に統一すべきとされている、ということです。
小説の書き方講座とか、ライター講座のような文章の中では、まず100%「表記ゆれはしないようにしよう」という注意喚起が為されています。
依頼を受け、報酬を受け取ることと引き換えに書く文章においては、もはや鉄則。
表記の統一は、絶対に守らなければならないルールとして扱われているのが現状です。
あなたが依頼を受けて文章を書いたとき、その中に表記ゆれがあったら、間違いなく「統一せよ」という修正指示が出されるでしょう。
それは問答無用のことであり、方針に疑問を呈したりした日には、次の依頼はないものと思ってよいところです。
それくらい、表記ゆれというのは絶対悪とされているのです。
でも、私は個人的に次のように思っているんですよね。
「確かに、何の効能もない、醜いだけの表記ゆれはある。でも意味のある表記ゆれも存在するのでは?」
表記ゆれが読みやすい場合もある!
上で述べた「何の効能もない、醜いだけの表記ゆれ」に関しては、私としても全力で避けようと思っています。表記を統一させることにやぶさかではない。
私にも一応、美しい文章を書きたいという欲望がありまして、そういった表記ゆれはその欲望を叶えるにあたって明らかに有害なものだからです。
具体例を挙げるなら、冒頭で挙げた例の「プリンタ」と「プリンター」などは、私の経験上ではまず使い分ける意味はありません。
なので、この場合はどちらかに統一することを心がけます。
しかし、中にはしっかりとした効能があるとしか思えない表記ゆれも、存在するんですよ。
その最もわかりやすい例が、漢字とかなの連続に関する問題です。
例えば、以下の2つの短い文章を読んでみてください。
- 今日いちばん良かったのはここだ
- そこが一番こだわったところだ
どちらの文章にも、イチバンという言葉が使われています。
しかし、1のほうはそれを平仮名で書いているのに対し、2のほうでは漢字で書いていますよね。
これは既存のルールに従うのであれば、明白に表記ゆれです。
もしあなたがWebライターをやっていて、請け負った記事の中でこのような2つの文章を使ってしまったら、提出した後に修正依頼を食らうことになります。きちんと統一しなさいと。
しかし――もう一度読み返してみてください。これって、表記ゆれのおかげで読みやすくなっていませんか?
1のほうは、イチバンという言葉が漢字に挟まれているので、もし自身も漢字になってしまうと、複数の単語が感じで連続してしまうことになります。
逆に2のほうは、前後が平仮名なので、自身も平仮名になってしまうと、全体として平仮名ばかりで、とても読みづらいものになってしまいます。
つまり、上記の例の場合、表記ゆれであることを承知の上で、意図的にこのように使い分けたほうがいいのではないかと――少なくとも私は思っているんですよ。
これは「やる価値のある表記ゆれ」なのではないかと。
……しかし残念ながら、こんなことを言っても世の中の風潮が変わることはありません。
表記ゆれはダメ、ゼッタイ。表記は統一、これ鉄則。それがこの国で文章を書くということなんですよね。
ライティング業務ではルールに従おう
以上を踏まえて、ではどのように振る舞えばよいのか?
まず基本的に、ライティング業務全般においては、クライアントの敷いたルールに従って文章を書くようにしましょう。
その中にはまず間違いなく「表記ゆれ禁止」も含まれていますが、異議を唱えることはしないほうが賢明です。
あなたがよほど貴重な人材でない限り、面倒臭いライターだと判断され、次から使ってもらえなくなるだけだからです。
私はWebライティングの仕事をしていますが、そんなわけで業務においては表記ゆれは決してやらないようにしていますし、異議も唱えないようにしています。
漢字やカナが連続しようが、とにかく杓子定規にやっておけば文句は出ないのですから、まあそのように振る舞って報酬をいただいておくべきでしょう。
ブログや小説では好きなように振る舞おう
しかし個人的にブログ(この記事がまさにそうですね)や小説を書く際には、私は自身のこだわりに基づいて、前述のような意図的な表記ゆれを持ち込むスタンスでやっています。
「表記ゆれはスタンスが統一されていない証」という考え方を突っぱねて、「いや、これはその場その場で読みやすさを追求するというスタンスを統一させている証なのだ」と主張したいわけです。
実際のところこの考え方、マイナーですかね?
でも想像する限りでは、同じように考えている人も結構いるのではないかと思うんですよね。
私は日本語を書くうえで最重要なことの一つに「漢字とカナとバランス」があると思っており、その中でも特に連続性にはこだわるべきだという立場です。
その立場からすると、表記ゆれしないことと引き換えに漢字やカナの連続が発生してしまいかねないのは、真の意味で読者のほうを向いていないことになるのでは? ……と思ってしまうんですよ。
何と言うか、統一性をいうものを、思考停止の言い訳に使っているように感じられるわけです。
言い過ぎかもしれませんが。
おわりに
以上、表記ゆれについての私見を述べさせていただきました。
このブログでは、今後も個人的なポリシーに基づいて、表記ゆれしないことよりも、その場その場の漢字とカナの続き具合や量的バランスのほうを重視してやっていきたいと思います。
結果として、プロの目から見て「しょうもない駄文」になってしまい、Webライターのポートフォリオとしてはレベルの低いものになってしまうかもしれないのですが、まあ、自由にやっていきます。
文章って面白い。
全ての文字書き必見。推敲も校閲も面倒見てくれます。