天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

現実に対応しすぎて「理不尽の手先」になってしまう人

 現実というのは、とても理不尽なものです。

 ただでさえ、いろいろすべきことがあって大変なのに、その上にまるで何かのペナルティのように不意打ちでのしかかってきます。

 最低限守られるべきルールやマナーが、一方的に踏みにじられたり、固く約束したことが相手の都合だけで「無かったこと」になったり、過去に取り決めた内容がいつの間にか変わっていて、それに対してこちらから異を唱えることが許されていなかったり――。

 パターンを挙げていけばキリがありません。

 

 それらは明らかに「存在すべきでないもの」なわけですが、しかし現実に山ほど発生し、私達を苦しめることになります。

 私達は、生き残っていくために、そういった理不尽と相対してしまったとしても、何とか上手くやり過ごさなくてはなりません。

 理不尽に対して「それは理不尽だ!」と訴えてみても、どうにもならないことが多いからです。

 

 今日はそんな場面においてしばしば見られがちな、ある罠について考えてみようと思います。

 

 

例えばこんな職場の先輩

 例えば、仕事におけるこのような場面を想像してみましょう。

 

 あなたはまだ社会人になりたての新人で、周りは知らないことだらけ。まだまだ学ばなければいけないことがたくさんあり、目まぐるしく展開する毎日に、何とかついていっている状態です。

 あなたは神経をすり減らしながら、必死になって仕事を覚えているわけですが、あるとき、客先のとある理不尽な行動から、脇目も振らず一所懸命に進めていたものが、すべて白紙に戻ってしまいました。

 

 そんなあなたに対し、あなたの教育係のような立場を担っている先輩が、失意の底にいるあなたに次のような言葉を投げかけます。

「仕事というのはそういうものだ。それを想定できなかったお前が悪いし、それに耐えられないというのなら、さっさと仕事を辞めるべきだ」

 

 話はそこで終了し、あなたは独り、世界から取り残されたような気分になりました。

 

 ――このような場面です。

 

 先輩の言い分を分解し、一つ一つ精査していっても、どこか間違っている点が見つかるわけではありません。

 確かに、仕事というのは往々にしてそういうものです。たくさんの理不尽に溢れていて、続けていればしばしばそういったことに見舞われる羽目に陥る。

 出来る限りその可能性を想定しなければいけませんし、それに耐えられないのが仕事を続けていく上で致命的であることもまた、その通りであると言えるでしょう。

 そういう現実に心から納得することは難しいですし、とてもしんどいことですが、自分の限界と相談しながら、何とかうまくやっていかなければならないところです。

 

 そう、先輩は徹頭徹尾、正論を言っているのです。

 あなたは先輩の言葉に対し、「ここが間違っている」と論理的に反論することはできないでしょう。

 

勢い余って理不尽の味方になってしまう罠

 では、先輩の何が問題なのでしょうか。

 それは、「基本的に理不尽な振る舞いは、それをする側に問題があるのだ」という大前提を、態度から除外してしまっているところです。

 つまり、理不尽を持ち込んできた者の非を語らず、それに見舞われた者を責めることに終始することで、「あなただけが悪い」かのような言葉になってしまっているところがまずいのです。

 

 先輩の意図はわかります。

 理不尽な現象や人に対して、いくら正論を唱えたところで状況は良くならないので、被害を被る側が何とか対処するしかない。

 そういう厳しい現実を伝えたかったのでしょう。

 それを骨身に染み渡らせることが、あなたに社会の乗り切り方を教えることであり、その場面において必要なことだと考えたのでしょう。

 

 しかしだからといって、理不尽に対してまったく異を唱えない姿勢には、大きな誤解を招く要素があります。

 ひたすら一方的にあなたを責める行為は、「理不尽の側について、一緒に被害者であるあなたを叩く」行為と、まったく同じ外形を持っているからです。

 そのような教育方針では、何より大切な、後輩であるあなたからの信頼を勝ち取ることは難しいでしょう。

 なぜなら、そのような態度をとる先輩は、あなたから見て「味方」であると認識することができないからです。

 

理不尽との正しい距離感

 先輩がどのような言動を取れば良かったのかは明白です。

 一言でもいいから、あなたに対して「理不尽に見舞われ、被害にあったことへの同情を示す」べきだったのです。

 べつの言い方をするならば、基本的にあなたは正しい、ということを、しっかり言葉として残し、自分の立ち位置をはっきりさせるべきだったのです。

 

 それは甘やかしているのとはまったく異なります。

 自分が理不尽の手先に堕ちていないことを証明する手段であり、後輩であるあなたの側にきちんと寄り添っていることを証明するために、絶対に必要なことなのです。

 そうでないと、理不尽を理不尽だとまったく思っていない人間の振る舞いと、何の違いもなくなってしまいますから。

 

 つまりこの場面においては、次のようなストーリーが語られることが必要不可欠だったわけです。

「先方は明らかに理不尽である。明らかに加害者は先方であり、被害者はあなたである。しかし、それを嘆いてもどうにもならないので、次からはそういうことにあらゆる面で備えなければならない」

 

 そのいちばん肝心なところを省略してしまうと、先輩が理不尽の内容に納得しており、自分と同じように納得しないあなたを、何かおかしいものであるかのように責めているような構図ができあがってしまうわけです。

 まだ新米であるあなたには、そこから先輩の省略したものを読み取ることは難しいでしょう。

 教育係のような立場を担っている以上、先輩は絶対にそのストーリーを省略してはいけなかったのです。

 

おわりに

 ――こんな風に、「あなたは一体どっちの味方なのか?」と訊ねたくなるような態度は、様々な場面で様々な立場の人が見せるものです。

 例えば、何らかの対象について、「大切に思っているからこそ批判するのだ」と主張する人が世の中にはいます。

 確かにそういうのも必要ではあるでしょう。大切に思っているからといって、一切批判しないというのは、問題のある態度だと思いますから。

 

 しかし、大切に思っていること自体を示す発言を一個もしないまま、ただひたすら批判だけをずっとずっと続けていたら、次のような疑惑が発生してもおかしくないでしょう。

「あなた、本当は大切に思っているなんてことはなくて、単に対象のことが嫌いなだけなんじゃないの?」

 こういうケース、あなたも目撃したことがあるのではないかと思います。

 対象は、国であったり団体であったり、その場面によって本当に様々ですが。

 

 以上、大前提の証左はきちんと表明しておきましょうね、というお話でした。