数年前から、共感性羞恥という概念がそこそこ認知されるようになりました。
今日はこの共感性羞恥について、私自身の日常的な体験を少し書いてみたいと思います。
この記事の内容に共感していただけるのであれば単純に嬉しいですし、まったくわからないという方にも、「なるほど、こういう人間が世の中にはいるのか」と記憶に留めていただければ幸いです。
共感性羞恥とは?
一応、共感性羞恥というものについて簡単に説明しますと、次のような感じになります。
「他人、あるいは漫画やアニメ等のキャラクターが恥をかいている場面を見たとき、まるでそれが自分のことのように恥ずかしく感じる現象のこと」
ポイントは、対象となる人物およびその状況が、自分とは何の関係がないというところです。
まったく無関係の事象に対して、まるで我がことのように恥ずかしさを感じてしまうわけですね。
この言葉が最初に広まったのは、私の観測する限りでは、『マツコ&有吉の怒り新党』というTV番組で紹介されたことがきっかけでした。
TVはオワコンと言われていますが、やはりまだまだその影響力は大きいです。
その番組のアンケートによれば、共感性羞恥を持っている人間の割合は、およそ10人に1人とのことでした。
AB型の割合や、左利きの割合とあまり変わりませんね。多いような少ないような、微妙な数字に思えます。
これは決して病気ではなく、どちらかと言えば体質の範疇であるようです。
それも、聞きかじったところによれば遺伝レベルのものであり、後天的な体験によってそうなるのではなく、生まれつきのものであると考えるのが正しい認識であるようです。
この言葉を最初に目にしたとき、私は目の前が急に拓けたような気持ちになりました。
自分の持っている性質が、きちんと名前のついたものであること、そして、同じような人間がまあまあの割合で世の中に存在しているのだということが、それによって明らかになったからです。
そう、私は思いっきり共感性羞恥を備えている人間なのです。
自分で言うのも何ですが、筋金入りと言っていいでしょう。
思えば昔からそうだった
生まれつきのものであるという話は、おおいに納得のいくところです。
実際、私も物心ついた頃から、共感性羞恥の特徴を自覚していました。
子供の頃は、それをうまく言語化することができなかったのですが、明らかにそれは共感性羞恥そのものでした。
ぶっちゃけた話、自分自身のことで恥ずかしい思いをした経験よりも、共感性羞恥によって感じた恥ずかしさの方が数が多いのではないかと思います。
それくらい私にとっては、この体質による「恥をかいた経験」が日常的だったのです。
もともと恥ずかしがり屋だったので、それも関係しているのかもしれません。
恐らくですが、自分自身があまり恥ずかしさを感じない人間は、共感性羞恥を持つこともまずないのではないかと思います。
そういう意味では、シャイな人間の特徴、ということもできそうな気がします。
文化圏による違いとかにも興味がありますね。例えば、日本人にはよく見られるが、欧米人にはほとんど見られない、みたいな傾向があるのかどうか。
学術的な研究がどれくらい為されているのか分かりませんが、ちょっと調べてみたいところではあります。
私の共感性羞恥の特徴は、リアルの人間に対してはあまり感じることがなく、その代わりにフィクションで頻繁にそれを強く感じるということです。
理由はよくわからないのですが、リアルの人間の場合は、割と冷静に「他人事」として目の前の現象を自分と区分けすることができるのです。
共感能力があるのかないのか、よくわからない特徴ですよね。
もしかしたら私は、リアルの人間を理解しようとか、リアルの人間に寄り添うという姿勢が弱いのかもしれません。
ここら辺は、コミュ障の本領発揮と言える――のでしょうか。わかりませんが。
その代償であるかのように、フィクションの登場人物が恥をかいたときに抱く羞恥心は、物凄いものがあります。
実際、そのことで生活に支障をきたすレベルで困っているのが現状だったりします。
困ること:インプット
インプットとアウトプットに分けて説明しますと、まずインプットでは、アニメをコンスタントに消化できないという悩みがあります。
アニメのキャラクターが、大勢の人間の前で何か目立つような行動を取ったりすると、突然視聴を続けるのがつらくなり、思わず一時停止をしてしまうのです。
そして、それを再開するのには、結構なエネルギーが必要になるんですよね。
30分のアニメを、1時間くらいかけてようやく観ることができた、などということも、そんなに珍しいことではなかったりします。
ジャンルとしては、シリアスな青春モノとかに多いですね。
若さというのは、フィクションの世界においては暴走してなんぼのものですから、人前で恥をかくシーンはかなりの割合で存在するのです。
そういうシーンに遭遇するたびに、私は自分自身が無数の人間の前で大恥をかいたのとまったく同じ気持ちになるわけです。
よくあるパターンとしては、学校の教室で、メインキャラクターが何か空気に逆らうことを言ったりやったりする、みたいなのですね。
ドラマとしてはとても目を引くと思うのですが、とにかくしんどい。
そういう展開になりそうになるたびに、「あー、またしんどい時間がやってくるなあ」みたいなことを思って、ゲンナリしてしまうわけです。
決して、そういうシーンのある作品が嫌いというわけではないのが、また複雑で厄介なところだったりします。
困ること:アウトプット
同じことは、自分が物語を作るときにも当てはまります。
私は小説を書いてラノベ新人賞に応募している人間なのですが、自分の書く物語の中に、登場人物が恥をかくシーンを入れることがなかなかできないんですよね。
創作においては、作者にとってつらいことも、必要とあらばしっかり混ぜ込むことが大切だと思うのですが、あまりにも羞恥心が激しいあまり、どうしてもそういう流れを避けて作劇してしまうのです。
結果として、私の作る作品の幅は、かなり狭いものになってしまっている気がします。
決して他人の前で恥をかかない主人公。それではちょっとドラマ性に欠けるものがあるでしょう。
これは今後の重要な課題であり、次に書く小説では、必要とあればそういうシーンもためらいなく描かなければいけないなと、自分に言い聞かせているところだったりします。
おわりに
この記事を書くにあたって、共感性羞恥をキーワードにして検索してみたのですが、巷の記事では、「共感性羞恥は感受性の高さの証」とか、「治るものでもないし、治す必要もない」といったようなことが多く書かれていました。
それは確かにそうなのかもしれませんが、正直な気持ちとしては、あまり慰めにはならないな、というところです。
実際にこの体質のせいで、生産性の低下という実害が発生しているわけですから、精神的に開き直ってめでたしめでたし、という風にはならないのです。
物事をこなすのに支障をきたす感受性など、焼き切ってしまったほうがいいのではないかというのが本音ですね。
どうにかならないものかなあ。
もしあなたが、私と同じように激しい共感性羞恥をお持ちなのであれば、よろしければ苦労話などコメントでお聞かせいただければと思います。
難儀な体質を持ってしまった者同士、ちょっと傷を舐め合ってみませんか?