天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

ネタバレ肯定派がたまに主張するおかしな理論について

 今日は、いわゆるネタバレと呼ばれる行為について、巷でちょっと揉める場合の話を書いてみたいと思います。

 ここで言及するのは、あくまでもルールの無い空間におけるネタバレの在り方についてであって、何らかの決めごとが存在するコミュニティ等はまったく別問題であることは、先にお断りしておきたいと思います。

 その場合は、決めごとの内容が何であれ、私がどうこう言う範疇ではありませんので。

 

 

まずはネタバレの定義

 まず最初に、私にとっての(つまり当記事における)ネタバレの定義をはっきりさせておきますね。

 私にとってのネタバレとは、物語の「先」に関する一切の情報を指します。

 事件の犯人だとか、この先誰がお亡くなりになるのかとか、そういう「中核を成す」ものだけではなく、いかなる小さな情報であっても、物語に触れるより先に提示されるものは、私にとってネタバレとなります。

 

 なので、アニメで言うと――ちょっと極端に思われるかもしれませんが――オープニングやエンディング、公式サイトの情報なども、ネタバレとみなすことがあります。

 それらは制作者が「事前にチラ見せしても大丈夫(あるいはそのほうが興味を引く)」と判断したものですが、それは関係ありません。

 文字通り、「本編を最初から順番に追うより前に得られる本編の情報」すべてを、私はネタバレと捉えているわけです。

 

 これを踏まえて、本題に入ります。

 

ネタバレに関する諸々のスタンス

「あなたはネタバレについてどう思いますか?」と質問すれば、恐らく多種多様な回答が返ってくるものと思われます。

 この問題については、本当にいろいろな考え方があるんですよね。

 気にする人は、さながら親の仇のようにネタバレを憎んでいますし、気にしない人は、びっくりするくらい何もかもを事前に受け入れてしまいます。

 そして、これは相当に根源的なテーマなので、残念ながら相反する考えの人達が相互に理解し合えることはあまりありません。

 なかなかどうして、火種だったりします。

 

 私のスタンスは、はっきりしています。

 先述のようにネタバレを定義した上で、「誰かがネット等でネタバレをするのは完全に自由。だが自分はかなり本気を出してそれを回避するよう努める」というものです。

 要するに、他人には何も期待せず、すべて自分の問題にしているということですね。

 大袈裟に言えば、表現の自由の尊重と、自己防衛の徹底、ということになるでしょうか。

 

 しかし世の中には、その表現の自由を、マナーの問題とした上で、看過できない人達がいます。

 ネタバレを嫌う人の一部がそうなのですが――ネットのような「公の場」での、早期のネタバレを自粛するよう求めるケースがあるんですよね。

 例えば、いわゆるフラゲをしたゲームのプレイ報告ですとか、封切られたばかりの映画のネタバレ感想ですとか、そういうものをやめるべきだ、という主張を、他人に対してするわけです。

 

 そこにはそれなりの理屈があるのですが、何ら強制力のない立場で他人を、まるで悪いことをしている人のように責めている面があるので、それがちょっと目立つ発言だったりすると、まあひと悶着起きてしまうことになります。宿命的に。

 

あるネタバレ肯定派の理論

 もう一度、念を押しておきますが、私は「誰かがネット等でネタバレするのは完全に自由」だと考えています。

 あとはこちらが勝手に頑張って避けるので、気にせず好きなことを好きなだけ、どんどん語ってくださいな、というスタンスです。

 

 その意味で言うと、ネタバレ否定派の一部が口にする「自粛要請」には、明白に反対です。

 それを主張する人達のメリットはそりゃあ理解できますが、他人に求めることではないだろうと思うわけですよ。

 プラットフォームによっては、タグなどを上手く使って、ネタバレ発言とそうでないものの棲み分けを行おうじゃないか、みたいな動きもあったりするのですが、私はそういうのにもあまり賛同できません。

 結局それも、ネタバレしたい人達に何かを課しているわけですから、窮屈そうで気の毒ですし、そういう「半分ルール、半分マナー」みたいな中途半端なものがあると、勘違いした糾弾が跡を絶たなくなる気がするんですよね。

 結局、火種の強化に繋がるのではないかという危惧があるのです。

 

 ……とまあ、ここまではネタバレを避ける立場から、ネタバレ肯定派に寄った意見を述べてきたのですが。

 実は、長年ネタバレ論争を観測していて、どうしても一つだけ、突っ込みたくて仕方がない理論がありまして――。

 それについては、発信源はネタバレ肯定派なんですよね。

 それが今回、当記事で語りたかったメイントピックであり、記事タイトルで触れていることだったりします。

 

 次のような意見が、肯定派の中からちょいちょい出てくるんですよ。

「ネタバレされてつまらなくなるってことは、『まだそれを知らない』ということ以外に魅力がないということで、単に作品がたいしたことないだけじゃないの? ていうかそういう人って、初見のときしか作品を楽しめないの?」

 

違う、そうじゃない

 そういうことを言う人は、私の観測する限りでは大抵「トドメ刺してやったった」的な鼻息を伴っているのですが……。

 はっきり言って、良いトコ突いているどころか、大きく的を外した意見だと私は考えています。

 

 上記の指摘は、ネタバレ否定派が次のように主張しているときにのみ有効なのです。

「ネタバレされると、面白さが完全にゼロにまで落ちる。だからネタバレは控えてくれ」

 このような主張を受けて、ゼロまで落ちるということは、それ以外に何もないということなのでは? と話を持っていくなら、それはしっかり機能していますよね。

 

 ですが、そのような主張が、果たして巷にどれほど転がっているものでしょうか?

 もちろん私は、この世のすべてのネタバレ否定派の意見をチェックしているわけではないので、「そんなことを言っている人はいない」と断言することはできないのですが、ぶっちゃけ、まず見たことがありません。

 

 ネタバレ嫌いが重要視しているのは、「付加価値としての未知」なのです。

 何が起きるかわからない、という状態にはワクワク感があり、それがその物語のそもそも持っている面白さに対し、付加価値として作用し、ブーストをかける。

 それは初見のときにしか味わえない貴重な「特典」で、一つの作品につき一回こっきりのチャンスなわけです。

 ところがネタバレを食らうと、そのせっかくの特典が消滅してしまい、作品がノーマル状態になってしまう。

 その喪失を言っているのであって、面白さがゼロになるとか、初見以外は楽しくないとか、そういう話ではまったくないわけですね。

 

 私などは逆に、そのような指摘が指摘として機能すると思っているネタバレ肯定派の人に、こうお訊ねしたくなるのです。

「ということは、あなたにとって『未知であること』は面白さを増幅させるものではまったくないのですか? ネタバレされても『一切何も』減るわけがないとお考えなのですか?」

 これはべつに、「どうせ答はノーだけど、言えずに黙るだろう」と高をくくっているわけではありません。

 この質問に対して、普通に「イエス」が返ってくる可能性も十分にあると思っています。

 そこで回答によってどうこうしたいわけではなくて、この質問を投げれば、相互理解にまでは至らずとも、つまりどんなすれ違いが起きているのか、は把握できるのではないかと、そういうことに期待する次第なのです。

 

おわりに

 フィクションを消費するというだけのことでも、人によってこうもスタンスは異なってくるのです。

 中には「結末が先にわかっていないと、うまく途中を楽しめない」という人もいて、そういう人はむしろ積極的にオチ等を先に知りたがる。

 正直、私の目には異種族のように映ってしまうのですが、しかしもちろんそういうのも全然アリなわけです。

 

 いずれにせよ、この件に関して、一つの場の中で全員の願いを100%叶えるのは不可能。

 誰かが何らかのかたちで、自分の満足のために手間をかける必要が出てきます。

 私は先述したように、「ネタバレOK、ただし私は目を塞ぐ」派ですが、どうしてもそれでは不満だというネタバレ否定派もいるでしょう。

 そういう人に対しては、とりあえずこう言っておきたいと思います。

「たぶんそれは流れ的に無理な願いだと思います。しかし上に挙げたような変な指摘を受けたら、そのときはしっかり事の本質について教えてあげましょう」

 

 ネタバレ問題は永久に不滅です。