今日はいわゆる表現規制問題について、日頃から考えているあれこれを言葉に残してみようと思います。
Twitterのbioに「表現規制問題」と記載している割に、私はあちらではほとんどその問題について言及することはありません。
他の人の意見を読む側に徹しているのです。理由はいろいろありますが、俗に言う「表現の自由戦士」として活動するリソースを、今のところ割くことができない、というのが大きいでしょうか。
今日の記事では、そのぶんをまとめて吐き出してみたいと思っています。
あなたの立場に依らず、興味深いものと思ってもらえると嬉しいですね。
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「表現の不自由展・その後」騒動
これを書いている現在、表現規制・表現の自由に関してもっとも熱い話題になっているのが、「表現の不自由展・その後」と題された展示会の中止騒動です。
ざっくり説明しますと、これは「あいちトリエンナーレ」にて行われていた展示会で、そのコンセプトは「様々な理由で撤去された過去の芸術作品を、一同に集めて展示する」というもの。
しかしその内容について多くのクレームが入り、結果としてわずか数日で、展示会そのものの中止が決まった、というのが、現在までの流れです。
まず私の基本的なスタンスを明確にしておきますと、この展示会の中止について、私は支持しません。
言うまでもなく、「表現の自由」がその中止によって損なわれるから、というのがその理由です。
ここで注意していただきたいのは、「中止を支持しない」というのは、「中止させた者達を支持しない」というだけでなく、「中止を簡単に受け入れるような態度も支持しない」ということです。
展示会には、誰がどう考えたって騒動になることがわかりきっている表現がたくさん陳列されていました。
そういう企画を実行に移すチャレンジ精神は悪いものではありません。
しかし、それには然るべき覚悟が必要です。それなしで(考えなしで)実行し、後になって「やっぱり文句が出たので引っ込みます」では、ただ圧力に屈した前例を一つ増やすだけであり、表現の自由にとっては逆効果でしかない。
酷な言い方かもしれませんが、始めたからには命懸けで続ける姿勢を見せる必要があったと思います。
私の目には、主催者側には(いちおう抗議らしきものは口にしていますが)それが不足しているように見受けられました。
さて、展示品には、いわゆる慰安婦像や、昭和天皇をモチーフにした、いわゆるヘイト的表現もあり、そういったことを税金が使われているイベントでやるのは如何なものか、というような議論もあります。
ですが私は個人的に、税金云々にはあまり興味が持てません。
私がこの問題に関して強く興味を持ったのは――そして何よりも問題であると思ったのは――以下の3点セットでした。
- 芸術監督を務めた津田大介さんとその支持者達は、過去に様々な創作表現に対して難癖をつけたり、抗議したり、不買運動を展開したりと、多種多様な圧力を加えてきた
- 今回追加された展示物は、津田さんサイド、すなわち左寄り・リベラルにとっての「自分達が訴えたいもの」に偏っており、「自分達が潰してきたもの」は完全スルーしていた
- 上記のような背景があるにもかかわらず、今回自分達に「潰される出番」が回ってきた途端、急にそれを「表現の自由の後退」などと言い出した
一言でいえば、ここにあるのはあからさまなダブルスタンダードです。
過去に津田さんは、ヘイト的表現については表現の自由は認められない旨の発言を残しています。
そのロジックが自分の活動に降り掛かってきたら、今度は表現の自由の名のもとにその正当性を訴え、被害者面をしてみせた。
そして彼の支持者達もまったく同じ主張をしている。例えば、かつて萌え絵を撤去させる署名運動を煽っていた人が、同じ口で今度は表現の自由を守れと訴えている。
この辺りから見て取れる、一部リベラルサイドの「人としての資質」こそが、今回の騒動のいちばんの問題点なのではないかというのが、私の感覚です。
かねてから私は「リベラルによる弾圧」というものを非常に不可解かつ不条理に感じ、それをさせる精神構造に興味を抱いていたのですが、今回その本質の一端が剥き出しになり、良くも悪くも非常に腑に落ちるところがありました。
ダブルスタンダードと表現しましたが、少なくとも一つ、彼らの中で自身の活動に整合性を持たせることのできる思考法があります。
あくまで私の推測に過ぎませんが、彼らはもしかしたら、その思考法に基づいて、次のようなことを思っているのかもしれません。
「過去に我々がかけた圧力は、対象が『悪い表現』だったのだから当然許される。でも今回潰されたものは『良い表現』だったのだから、守られなければならない」
いやあ……人間とは時にどうしようもなく偏向してしまうものなのですね。
創作表現に関する私の願望
事程左様に、創作表現については様々な問題がつきまとうわけですが、私としては、本音を言わせていただけるのであれば、そういったものすべてが鬱陶しくて仕方ありません。
何が良い表現だとか悪い表現だとか、公的なものにこの表現を使う是非がどうとか、配慮が足りているとか足りていないとか、どうでもいいじゃないかそんなこと――というのが、正直な気持ちだったりします。
私の基本的なスタンスは、次のようなものです。
「創作表現は、現実世界の完全な上位互換であって欲しい」
まあ、この記事のタイトルの通りですが。
この意味は読んで字の如しで、創作というものは、現実に存在する物事(行為も思想も含みます)のすべてを表現することが可能で、かつ、存在しないものをも想像の限界まですべて表現可能とするのが「本来の姿」であろう、ということです。
それが許されない社会は、歪んだ社会に他ならない。
しかし実際には、私達の社会はそうなってはいません。
日本は世界的に見て、かなり自由にいろいろなものを表現できる国ではあるのですが、私の理想からすると、文句をつけるには十分すぎるほど窮屈です。
特にわかりやすくナンセンスなところでは、犯罪行為や反社会的行為を描くことへのタブー視が挙げられるでしょうか。
「悪」を描くことが許されないため、「こういう悪は許されないものである」ということを伝えることもできない、というようなおかしなことが、少なからず起こっているのです。
滑稽なのは、その規制の基準が時として非常にアンバランスなところです。
例えば、これは小さな例かもしれませんが、銀行強盗をした犯人が車で逃走する場面を映像にするにあたって、シートベルトを締めていないのは駄目、みたいなのがTVの放送コードにはあるのだそうです。
でも考えるまでもなく、シートベルトを締めないことより、そもそもの銀行強盗のほうがよっぽど大きな犯罪であり、言語道断なものであるはずです。
なのに銀行強盗描写はOKで、逃走時にシートベルトを締めないのはNG。
規制を考える際に、実効性というものをほとんど考えていないのがよくわかる例ではないでしょうか。
ヘイトスピーチ問題
上記のような主張をすると、近年必ず引っかかるのが、いわゆるヘイトスピーチ絡みの問題です。
正直、これについての私の見解は、はっきりとは固まっていません。
私個人の生き方としましては、特定の何者かを激しく侮辱するような表現はなるべく使わない方向でやっています。
これは良心やマナーの問題でもありますが、それ以上に「そんなことで誰かと衝突する必要もあるまい」という計算によるところが大きい。
まあ、人と争うというのは、何かと疲れるものですから。
しかしそういうのを法律で取り締まろうという話になると、私としては身構えざるを得ないんですよね。
たとえそれが憎悪というダークサイドなものであれ、確かに人の中に存在するものであるわけです。
それを表に出すことが「法的に許されない」というのは、とんでもない圧力ですし、表現だけ封じたところで、憎悪は増すばかりではないか、とも思うのです。
これが例えば日本以外の国の話であるならば、場合によっては理解できます。
ある属性を持った人々に、明らかに権利がなく、ゆえに一方的に迫害される以外にないという状態であったとします。
そのような人々に対するヘイトを抑え込むことで、少しでも平等への揺り戻しを行おうというのであれば、これはわからないでもありません。
しかし日本って、一応そういう国ではないと思うんですよね。
何か侮蔑的な表現をされて、それがどうしても気に入らないというのであれば、名誉毀損で訴訟でも起こせばいいじゃないですか。
その権利を持たない者は、この国にはいません。
つまり現行の法整備で対処できるということなわけで、ここで改めてヘイススピーチ規制法みたいなものを持ち出して、特定の表現を封じようとするのは、表現の自由の観点からすればかなりの悪手であると言わざるを得ないと感じるわけです。
また、今のところの風潮として、ヘイトスピーチ規制にはちょっと「一方通行」なところがあります。
あるグループへのヘイトは許されないが、そのグループが他の何かに対してぶつけるヘイトはヘイトとしてカウントしない、みたいな不平等性が、議論の中に見て取れる。
つまりヘイトスピーチ規制というものを「悪用」しようとする向きがあるわけで、そういうのがしっかりあぶり出され、排除されないうちは、実際にそういった規制法をかたちにすべきではなかろうというのが、私の現在の考えです。
最前線としてのエログロ
さて、表現規制問題の伝統といえばこれ、エログロです。
すでに述べたように、私は現実に存在するすべて、想像可能なすべてを表現可能とするのを理想としているわけですから、当然ここでも「何でもあり」を望む派に属します。
ただエログロの場合、規制の一歩手前にゾーニングというべつの問題もあり、これについてはまた別個に考えなければなりません。
私個人の意見として、「緩いゾーニング」には積極的に反対しようとは思いません。
緩いゾーニングというのは例えば、成人向けの作品は成人向けコーナーを設けてそこに陳列するとか、学校のすぐ側にいかがわしいグッズ専門店のようなものを開かないとか、そういうレベルの話です。
ネットショッピングなら、商品を表示する前に警告を表示するとか、各種のフィルタリング機能に対応するといったことが挙げられるでしょう。
そのくらいの区分けであれば、そういった表現を望む人から何かを奪うことにはならないでしょうし、まあいいか、くらいには考えています。
しかし世の中には、ゾーニングの概念をこねくり回して、巧妙に自分の気に入らない表現を世の中から滅ぼそうと画策する向きがあります。
例えば、コンビニでの販売に大きく依っている雑誌を、「コンビニに存在すること自体、子供やそれを不快に思う者の目に留まるから駄目」と、完全に撤去させようとする動きなどが、それにあたります。
これはあくまでゾーニングの提案だ、と言いつつも、それを「弾圧の戦略として利用しようとしている」のが見え見えなんですよね。
そんなことをするから話がややこしくなり、ゾーニングにも反対論を唱えなければならなくなるわけで、困ったものだなというのが率直な感想です。
また、納得いかないこととして、例えばAmazonのKindleにおける販売停止などが挙げられます。
成人向け、特にロリ漫画に多いのですが、日本国内の法律的には売ってもまったく問題のない作品であるにもかかわらず、Amazon独自の判断で一切取り扱わなくなってしまうことがあるんですよね。
始めから取り扱わないとか、何らかの声明を発表するとかがあるならまだ潔いかなとも思うのですが(それでも納得はしませんが)、一度は売っていたものを、あるとき何のアナウンスもなく抹消してしまったりする。
なかなか傲慢な態度だなと思わざるを得ないところです。
それも含めて、いわゆるGAFAはエロに対して神経質すぎますね。
「国家より大きな企業」などと言われていますが、そういうところでは実にビビリと言いますか、臭いものに蓋、という態度を取る。
自由の国アメリカの企業でありながら、ずいぶんと不自由を強いるものだと私などは思ってしまうわけですが、きっと彼らは、自分達より自由な国における振る舞いが上手ではないのでしょう。
こういうのを考えると、国内のプラットフォームを元気にすることの重要性を一層強く認識してしまいますね。
さて、もう一つ、これはあまり支持を得られない考え方だと自覚しているのですが……。
実は私は、いわゆる児ポというものに対しても、「問答無用に悪いもの」とする世間の風潮には、納得が行っていません。
理屈はわかるのです。そういうことを強要される児童の存在があり、また組織だってそういうことをする人間達が存在する以上、それをまったく問題視しないわけにいかないのは当然のことでしょう。
二次元のエロを守るロジックの中にも、「非実在青少年の人権なんかを観念している暇があったら、実在の児童を守れよ」というのがあり、そこにもやはり実在児童のエロは言語道断という空気が間違いなく存在します。
しかし、です。
私は思うのですが、中には子供の頃にそういう写真集を出すことを正式にオファーされ、親ともしっかり相談し、自分の意志で「やってみたい」と判断してモデルになった人もいるはずなんですよ。
そしてそういう人にとって、自分が残したような作品が十把一絡げに「悪いもの」とされて世の中から抹消されるのは、「良き思い出だったものを、強制的に黒歴史にされた」ことに他ならないのではないかと、危惧するんですよね。
真偽は定かではありませんが、以前ネット上で、実際にそのような相談を見かけたことがあります。
まだ単純所持の規制が始まる前のことだったのですが、次のような相談内容でした。
「私は子供の頃にヌード写真集を撮りました。その本を今も所持しているのですが、自分の裸が写ったものでも処分しなければならないのでしょうか?」
それを読んだときの「ああ……」という気持ちは忘れられません。
この相談の主は――もちろん真実であるならですが――ある意味で「世の中を洗浄するための少数の犠牲者」となったのです。
しかしもちろん、普段は「多数のために少数を犠牲にする」ことなど断固として認めず反対運動を起こす方々も、こういった種類の「犠牲者」のために腰を上げることはありません。
少なからずいたであろう、良き思い出を己のヌードに抱いていた女性達は、強制的黒歴史化を黙って受け入れ、今に至っているわけです。
――まあ、このように表現規制というのは、いろいろな歪みを持っているんですよね。
そのどれもが、私にはいちいち癇に障るのです。
世の中、本当にままならない。
おわりに
人それぞれいろいろな意見があるもので、そのために揉め事が起きるのは仕方ないことだと思います。
何かを認めるにしろ認めないにしろ、必ず敵が生まれ、味方が生まれる。そして闘争状態になる。この流れは、もう宿命なのだと思って甘受するしかないのでしょう。
しょうがない。
気に入らないのは、そういう揉め事を通してきちんと相手を納得させる論理を示すという過程をすっとばし、自分の望みが自動的に叶うルールを、何かにかこつけて作ってしまおうとする人達の存在です。
端的に言ってやり方が汚いですし、そういうルールはブーメランとなって後々自分達の頭にも突き刺さるのだというのがわからないあたり、愚かであるとも言える。
表現の不自由展に与した人達は、まさにその事例を見せてくれたわけです。
私としては、皆が表現したいものを何でも表現して、それを気に入らない人はどう気に入らないのかを表現して、徹底的にやり合って、世の中を表現で溢れさせればいいと、そう思っています。
それをもって「殺伐としている」と受け取る人がいるのは当然だと思いますが、本当の殺伐とは、そういうやり合いすら発生させてもらえないような弾圧・規制が存在する中で生きなければならないことではないでしょうか。
ディストピアが実現しないことを、社会の底辺からこっそり祈っている次第です。
全ての文字書き必見。推敲も校閲も面倒見てくれます。