今日は女子校生(中学・高校を合わせてこの表記を使います)の「制服を着ているが靴下の類を履いていない」状態、いわゆる制服裸足がいかに素晴らしいかということについて、タイトルの通りドン引きするほど熱く語っていきたいと思います。
すでに同じ嗜好をお持ちの方に強く頷いていただけると同時に、その気のまったくない人にも「なんか凄い世界があるな」と思っていただけると嬉しいですね。
そしてできれば、後者の方々をこの道に引きずり込めたらいいな、などと企んでおりますので、できれば心を無にして、あるがままを受け入れるようにお読みいただければ幸いです。
なお、当記事で使用している画像は、いずれもネット上で過去に私が見つけた、いわゆる「拾い物」であり、権利はすべて撮影者の皆様に帰属します。
しかし見つけた時期が古く、また匿名掲示板に貼られていたものなので、いずれも具体的に権利者様を特定することはできません。
なのでこの場では、私が権利者ではないことを明記すると同時に、名も知らぬどなたかに謝意を示すに留めさせていただきます。
制服裸足の魅力
制服裸足――それは一言でいえば「限りある青春とフェティシズムの完璧な融合」です。
中学生・高校生といえば、一人の人間が大人への階段を登り始める、とても不安定で、しかしそれゆえに独特の魅力を備える時期。
その時期において、規律と規範の象徴のように身にまとっているのが、いわゆる学生服というものです。
女子の場合、主にセーラー服とブレザーがありますが、どちらが好みかは人によって大きく分かれるところでしょう。
時代の流れとしては、ブレザー側に傾いているのでしょうか。しかしセーラー服にも古来よりの捨てがたい魅力があり、私にはどちらが良いとは一概には言えません。
そんな女子の制服とセットになっているのが、足に履くものです。
靴下、タイツ、ストッキング――。
これらが興味深いのは、女子校生の恰好として当たり前のものと認識されてはいるものの、厳密に言えば「制服の一部ではない」ところでしょう。
学校側が設ける制約は、色の指定などに留まっており、あくまでも生徒の一人ひとりが自分の裁量で選んで履く付属物というのが、その本質なのです。
ゆえに、その存在は揺らいでいる。
そしてその揺らぎゆえに、ある特定のTPOが整うと、彼女達の足からそれらがフッと消えてしまうことがある。
その状態こそが、制服裸足です。
その魅力の本質を語る言葉はいろいろありますが、まず「規律と解放のアンバランス」を挙げることができるでしょう。
制服というのは、先述した通り、規律と規範の象徴です。神聖な学び舎(という表現は古風に過ぎるかもしれませんが)において規則正しい生活を送るべく、生徒達にはめられた一種の枷と言ってもいい。
それは抑制を促し、ふしだらな思念を払拭させるもの――のはずなのです。本来は。
しかし時としてその制服から伸びた足に、何もまとっていない状態が発生することがあるわけです。
そこに当然あるはずの装着がなく、スカートの端から始まる肌色が、途切れることなく足先までずっと続いている。
上半身は規律と規範で固められているにもかかわらず、下半身には本来あるはずの履き物が存在しない。何かを身にまとうことから完全に解放されており、大袈裟に言えば「生まれたままの姿」を晒している。
こんなアンバランスな恰好が、他にあるでしょうか?
そのアンバランスさゆえに、その裸足は「禁断の露出」のニュアンスを醸し出すのです。
彼女達は、抑制された状態のまま、その一方で、本来ならばさらけ出すことのない素肌をさらけ出している。
それは単なる裸足とは意味合いがまるで違います。
たとえば夏、彼女達は学校から家に帰れば、各々涼しい恰好をするでしょう。靴下など履かない人も多いことと思います。
その恰好を、単純に肌が露出している割合だけで見れば、制服裸足の状態より「露出している」ということになる。
あるいは学校内においても、プール授業というものがありますよね。
そこでは彼女達はスクール水着に着替えます。水着としては際どいものではないですが、もちろん制服よりは肌の露出は多いですし、当然ながら足元は裸足になります。
こちらも単純な露出度は、制服裸足より上ということになる。
でも、そういう問題ではないんですよね。
私服でいくら裸足になろうが、水着姿がそれだけ肌を露出していようが、そういった場面で裸足になるのは「当たり前のこと」なわけです。
もともと身体を規律で縛られた状態ではないのですから、そりゃあ裸足にもなるでしょう、という話です。
それに対して制服裸足というのは、身体に規律を強制された中にありながら、それでもなお部分的に肌をさらけ出す行為――背徳的露出なのです。
その文脈に、たまらなくゾクゾクしてしまうわけです。
すでにおわかりの方もおられると思いますが、上記の理屈上、プール授業で見られる女子校生の水着姿より、その後の授業を靴下を履かずに受けている姿のほうが、制服裸足フェチ的には刺激が強い、ということになります。
そのような背徳的なニュアンスを醸し出しながら、それでも基本的には「健康的」なイメージであるというのも、大きな魅力の一つでしょう。
それは純粋に、彼女達の若さからくるところもあります。
瑞々しさと甘酸っぱさ、あの年齢から感じられるそういった部分が、背徳的エロスをそのまま露骨に出すのではなく、健全なオブラートで包むような効果を発揮するんですよね。
健康的な制服裸足といって、私の頭に真っ先に思いつくのは、上でも挙げた、プール授業の後でしょうか。
髪を濡らした少女達が、夏の強い日差しを窓の外に見ながら、済ました顔をして裸足で上履きをいじり倒している。
朝はきちんと靴下を履いていた女子も、当たり前のことのように靴下には手を付けることなく、次の授業に臨む。
制服裸足に慣れていない女子は、なおのことその解放感がたまらないらしく、いつもなら絶対しない「授業中に上履きを脱ぎ散らかす」行為に積極的になる――。
このような光景、裸足フェチに言わせれば成人向け以外の何物でもないわけですが、しかし一般論として、ものすごく健全な青春の1ページがそこにはあるわけです。
背徳的ないやらしさと、健康的な眩しさ。この2つがこれほど深く掛け合わさることがあり得る恰好は、制服裸足を置いて他にないでしょう。
そして、制服姿のまま裸足になるという選択が、ある種の積極性の表れであることも、興奮度を高めてくれます。
言うまでもなく、制服を着ていたら靴下等を履くのが「当たり前」で、そうではない姿になるのは明らかに逸脱ですよね。
それを彼女達は、誰に強制されたわけでもなく、何ら報酬を得ることもなく、自ら選んでいる。最高級のエロスの素材として、健全な女子校生が自ら身を投じていくわけです。
そういう方向に積極性を見せてくれた結果だということが、実にありがたいことであり、そしてたまらない刺激に繋がるのです。
そんな制服裸足を、その嗜好のない人が見ると、恐らく次の一言が出てくるのではないかと思います。
「だらしない」
確かにそれは正論でしょう。制服裸足というのはどう解釈しても「身だしなみが整っていない」状態であるわけで、そこに性的興奮を抱かないのであれば、上記のような印象だけなのもうなずける話です。
しかし私などに言わせれば、そのだらしなさの度合いがまた良いんですよね。
たとえばこれが、制服もまともに着ていないで裸足、というなら、それは明白な校則違反であり、ちょっとカテゴリが変わってきます。
それに対して制服裸足というのは大抵の場合、制服の部分はきちんと着ているものなんですよ。
最低限度の規範は守っているのです。
その上で、足元だけ「これくらいはいいよね」的にだらしなくなっている。それが見る人によってはどれだけえっちいことなのかも自覚しないまま。
このさじ加減が良い。いわば「軽蔑に至ることのない緩み」であり、むしろ愛おしさすら感じるだらしなさなわけです。
これら一連のことが、校則の穴を突くかたちで実現しているのも、ハッキング的で素敵なところだと個人的には感じています。
もちろん学校によるとは思うのですが、多くの校則においては、靴下・タイツ・ストッキングについて、主に色の指定のみされています。
これはどういうことかというと、「履くならこういうものを履きなさい」という指示であって、「履いてこなければいけない」と書いているわけではないということなのです。
だから、そもそも履いていかない、という選択肢が、実はアリなのだ、となる。
そこを活用して、裸足で登校するって、とても面白い話だとは思いませんか?
私には、そういうハックを女子校生が編み出して実行するというのが、とてもイケていることに思えてなりません。
そしてそこまでしてあんないやらしい恰好をしてくれるということに、感謝の念を勝手に抱いてしまう次第。
本当に、彼女達には足を向けて寝られませんよ。
……といったようなことから、私は制服裸足というものを、女子がいちばん輝く恰好だと断言して憚りません。
どんな「良い服」を着ようが、化粧を頑張ろうが、高価なアクセサリーを身につけようが、女子校生が裸足で制服を着ることには、到底敵わないのです。
そこにある健康的なエロス、そして背徳感。それは他のどのような姿からも醸し出されることのないテイストであり、唯一無二のもの。
制服裸足は宝である、と言ってしまっても差し支えないでしょう。
制服裸足全盛期の光景
昭和の時代、制服裸足には今とはまた違った意味があったと思います。
具体的には、「貧乏」と「不良」。
かつての日本には、洒落になっていない貧困が存在し、それゆえに裸足というものに「靴下さえも揃えることができない」というニュアンスが強くありました。
もちろん今でも貧困は社会問題の一つなわけですが、デフレその他もろもろの状況から、靴下も買えないほど貧しいというのは、あまりピンと来る発想ではなくなっています。
裸足=貧乏というのは、昭和時代の典型的イメージと見ることができるでしょう。
そして不良。
制服裸足というのは、あの時代には不良がよくやりがちな恰好であり、必然的に人々がイメージするのもそういう生徒だったわけです。
その頃にも裸足フェチはいたでしょうし、あるいは彼らはそういう不良少女達に興奮していたのかもしれませんが、いずれにせよそれは現代のそれとはだいぶ違うものだったのではないかと推測されます。
さて、では平成以降の制服裸足はどのような位置にあるのでしょうか。
それを語るには、一昔前にあった、制服裸足全盛期について語る必要があります。
かつて00年代前半に、地方を中心として女子校生のあいだで制服裸足が広まっていた時期がありました。
まあ広まっていたと言っても、それが流行として雑誌で取り扱われたとか、最先端のファッションとされていたとかいうことではないのですが、現実の話として、多くの女子校生が靴下を履かずに学校に通っていた時期があったのです。
察しの良い方はすでにお気づきかと思いますが、当記事で使用している画像は、ほぼすべてがその時期に撮影されたものとなっています。
ゆえに冒頭で「見つけた時期が古い」と説明させていただいたのです。
当時のネット上のやり取りを思い出しているのですが、やはり人々の証言として、夏に暑くなる地方ほど制服裸足が蔓延していたように推測されます。
今ではすっかり日本中すべてが夏は猛暑を記録するようになってしまいましたが、00年代前半はまだだいぶ土地によって差があったように記憶していますので、そういう事情もあったのでしょう。
私がしばしば目にした話では、熊本あたりでは特に制服裸足をたくさん拝める、というのがありました。
真相はどうなのか、確かめる術もないのですが、もし本当だったのだとしたら、当時の熊本在住の裸足フェチはさぞ眼福だったことでしょう。
羨ましい話であります。
一連の画像を見るとおわかりかと思うのですが、当時の制服裸足ファッションは、ローファーのかかとを潰して履くことがセットであったようですね。
上履きと違ってローファーのかかとは固く、一度潰してしまうと元通りにはならないと思うのですが、それでも躊躇なく踏んでいくのが彼女達のスタイルであったようです。
そのため、後ろから彼女達を見ると、文字通り足のいちばん先まで肌色が続いている様子を拝むことができるわけで、実にけしからん風潮だったと言わざるを得ないでしょう。
女子校生がビジュアル的にもっとも輝いていた時期ではないかと思いますね。
それから時代は流れて、現在では制服裸足というのは、少なくともまとまった数を目撃できるものではなくなっています。
残念ながら、ごく一部の物好きな女子校生がやるか、あるいは靴下が濡れた等の特別な事情がある場合にのみ見られるものとなっている。
しかしこれだけ猛暑が当たり前になったのですから、何かちょっとしたきっかけがあれば再び、今度は全国的に流行ることだってあり得るのではないかと思うんですよね。
Instagramあたりで、どこぞのインフルエンサーが一言「制服裸足はいいぞ」的なことを言ってくれれば、それも夢物語ではない。
私としては、そのようなもろもろがガチッと噛み合って、再び世に制服裸足が溢れることをひたすらに願ってやまない次第です。
二次元の制服裸足
当然とことながら、制服裸足という嗜好は二次元においても確立されています。
まあメジャーかというとそこまでは行かないかもしれないのですが(基本的にフェチがメジャーの地位を獲得するのは至難でしょう)、それでも一定の勢力は確実に形成されている状態です。
その一つの表れとして、pixivが制服裸足の特集を組んだこともあるくらいです。
根っから裸足フェチの絵描きさんもさることながら、そうではない「普通の」絵描きさんも、制服裸足を描くことは結構あります。
性的嗜好から離れた「健康的なお色気」の題材として、制服裸足を選択する方が多いんですよね。特に夏に入ると、それが顕著になってきます。
最近は裸足フェチというものの認知度も増してきましたが、かつてはそこまでではなかったため、制服裸足のイラストを描いた絵描きさんが、自分の絵に「制服裸足」というタグが付いているのを見て、「そんなくくりがあるのか」と引き気味に感心しているところを何度も目にしたことがあります。
そういうことが起こる程度には、フェチの精神を持たずに描かれる制服裸足が存在するわけですね。
また、「制服」という条件からは少し離れてしまいますが、昨今は、規制の厳しいソシャゲの世界において、それをかいくぐることのできるお色気要素として裸足がフォーカスされているのをしばしば観測します。
だんだん息苦しくなってきた表現の世界において、裸足は「抜け穴」として珍重されている……というのは、私が裸足フェチだから抱く妄想に過ぎないのでしょうか?
真相は定かではありませんが、もしそのような流れがあるのだとしたら、私のような人間にとっては極楽ですね。
何しろ「全裸に靴下より、着込んで裸足」な人間なものですから、何であれ裸足が頻出するようになるなら、その流れ自体は大歓迎なわけです。
もちろん、それが学園モノで制服主体であるなら、それは最高のものとなるでしょう。
個人史――幻想としての制服裸足
さて、ここまで制服裸足への熱意を、変態認定されることも恐れず語ってきたわけですが、これほどまでに私を突き動かす根本的な事情についても、語っておきたいと思います。
根っからの裸足フェチで、裸足なら基本的に何でもござれな人間である私が、制服裸足に対して、他とは一段上の、特別な想いを抱いている理由とは何か?
――それは、私にとって制服裸足が、基本的に幻想の存在であるということです。
つまりどういうことかというと、私は中学受験を経験しまして、その結果、中高一貫の男子校に進学してしまったという過去があるんですよ。
なので、そもそも制服を着た女子と同じ教室を共有したことがまったくないのです。
このことが、私の制服裸足への情熱を確実に増幅させています。
私にとって女子校生の制服裸足というのは、たとえ全国的に大流行していたとしても、身近で拝むことは決してできなかった、いわば異世界の装束なのです。
だからこそ、飢えているんですよね。
今度生まれ変わったら絶対に共学の中学高校に通うぞ、くらいのことを、かなり大真面目に誓っていたりする次第。
教室で素足上履きの女子を見た最後の記憶が、小学校時代ですからね……。
こんな貧しいことが、他にあるでしょうか。いやありません(断言)。
進路そのものを後悔しているかというと、そこまでは言い切れないのですが、それでも「もしもあのとき」みたいなことはよく考えてしまいます。
もしあのとき男子校に進学せず、制服のある共学校に通うことになっていたら、果たして自分の思春期はどのようなものになっていたか。
まあ私は非モテの極地にいる人間なので、例えば制服裸足の女子がいたとしても、その子とお近づきになれることは恐らくなかったろうと思います。
でも、ある程度の会話くらいはできたかもしれませんし、機転の利かせようによっては、裸足の話題に持ち込んだりすることもできたかもしれない。
そしてもしかしたらそういう経験を踏まえることによって、非モテなりに今よりは女子というものに慣れている人間になれたかもしれない。
そんなことを思うと、いろいろと苦い気持ちになってくるわけですが……そこら辺は今さらどうこう考えても仕方のない話。
まあ、たくさん妄想をして、自分を慰めることにいたします。
おわりに
すでに述べたことではありますが、もう一度。
制服裸足、ここいらでまた流行ってくれませんかね……。
何しろ全国的に猛暑になりやすい時代ですし、以前と比べて学校というものが少なからず「緩くなっている」とも思いますし、制服裸足が流行るだけの土台は整っていると思うんですよ。
あとは何か、女子校生達の背中を押すスイッチがあればいい。
例えば先述の「Instagramのインフルエンサー」がそれにあたるわけですが、真面目な話、もし私に大金があったら、どこかのインフルエンサーにお金を積んで、制服裸足をイケてるものだと主張して欲しいとお願いしていたことでしょう。
もちろん、私はもう中高生ではないので、たとえそれで大流行したとしても、残念ながら教室で授業中に裸足になっている彼女達を直接拝むことはできません。
しかしSNS全盛の時代ですから、ネットに張り付いていれば、当の女子校生達本人が教室で撮影した制服裸足画像が、きっと山ほど流れてくるだろうと思うのです。
そんな時代が来ることを夢見つつ、このようなフェチ全開記事を書きながらセミの鳴き声を聴いている、夏の午後であります。
最後に、ここまで読んでくださったあなたにお尋ねしたいです。
あなたの通う学校には、制服裸足の女子はいましたか? あるいはあなたが現在中高生だとして、そういう女子が同じクラスにいたりしますか?
さもなくば、あなた自身が制服裸足の女子校生だったりしましたか?
もしそのような目撃談・体験談がおありでしたら、ぜひともコメントでお聞かせいただけませんでしょうか。
私としては、そのような実話は大変な滋養となるのです。
よろしくお願いいたします。
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