天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

弱者は可愛げがないと救済されにくい

 明日は参院選ですね。有権者の皆さんは誰に投票するか、もう決めましたか?

 特に若い世代の投票は大切です。

 私はポリシーとして、ネット上で自分の政治的立場を明らかにしたり、政治トークをしたりしないようにしているのですが、例外的に「若い世代の投票率を上げることの大切さ」は主張していきたいんですよね。

 政治家さん達が若い世代の顔色を窺わなければならなくなるだけでも大きな意味があるので、あまり興味が持てないという方も、ぜひほんの少し時間を作って各政党や候補者さん方の政策を調べ、投票所に足を運んでみてください。

 

 閑話休題。

 今日は弱者というものについて、ちょっと書いてみたいと思います。

 弱者の定義を決めるところから始めると、恐ろしく長く複雑になってしまう……というか、現在の私の見識ではちょっと背伸び感が出てしまうので、あくまで私が常識的だと感じている用法の範囲でいきますね。

 

 

キモくて金のないオッサン

 ちょっと前から、一部ネットでこの言葉が用語として定着している様子が見受けられます。

 キモくて金のないオッサン。

 対象となる人間は文字通りなので説明不要として、これがどういう文脈で使われるかというと、おおむね次のような感じになります。

「弱者であるはずなのだが、社会的にそのように認識されにくく、また同情を買いにくいため、制度的な救済が遅れている」

 

 論点は2つありますね。

 まず第一に、「社会的にそのように認識されにくい」という部分。

 基本的に、まだ高齢に達していない成人男性というのは、この社会においては良くも悪くも「もっとも強い」存在であるとみなされています。

 その基本があまりに浸透しているので、そのくくりの中にあるにもかかわらず「持たざる者」をやっている存在が、非常に扱われにくくなっているのです。

 それは「見えにくい」ということでもありますし、同時に「強者ポジションのくせに持たざる者に落ちているのは怠慢の結果だ」という自己責任論の反映でもあります。

 救済の手は、わかりやすく哀れな境遇を好む傾向があるわけですね。

 

 そして第二に、「同情を買いにくい」という部分。

 ここがこの記事の肝となります。

 いたって単純な話として、キモくて金のないオッサンは、まず「可哀相」と思ってもらうのが難しい。そして、仮にそう思ってもらったとしても、それが「だから助けてあげたい」というところまで発展することがあまりない。

 そもそも論として、オッサンという存在は人気がなく、ゆえに人々から助ける必要性があるという認識をされないんですよね。

 要するにこういうことです――「オッサンは可愛げがないから、どうも助ける気になれないんだよなあ」

 

守られる生き物と守られない生き物

 可愛げ。

 これを広く解釈すると、あらゆる種類の「救済」において、手を差し伸べる側の動機になっていることがわかります。

 人間なら、まずは子供から順に救済したくなりますよね。

 これは「子供を救うほうが将来的には社会のためになる」という現実的な計算ももちろんあるのでしょうが、それ以前に「子供が苦しんでいるのを見るのは忍びない」という感情がまずあるというのが、私の観測です。

 

 動物愛護などは、その可愛げが露骨なまでに救済対象を選別する世界と言えるでしょう。

 見た目が可愛いから愛着を持てるとか、知能が高いから愛着を持てるとか……。

 一見すると博愛主義のように見えますが、その実、結構シビアに感情論が働いているのが、あの界隈です。

 そもそも、動物は愛護するけど植物はどうでもいい、というあたりですでに、命を平気で選別する冷徹さが確認できる。

 過激な一部ヴィーガンの人達などは、動物を食べることは残酷なこと、と強固に主張するのですが、その「愛」はどうやら植物には向かわないらしく、「博愛に目覚めた結果、水だけ飲み続けて3週間で亡くなりました」みたいな人は聞いたことがありません。

 結局のところ、対象に可愛げを見出だせるかどうか、で動いているわけです(そして究極的には、自分が一番可愛い)。

 

 その意味で、歴史的に最強と言えるのがでしょうか。

 猫が何か可哀想なことになっていることが情報として広まると、人間はかなり大掛かりな動きを見せます。

 一匹の猫がどこそこに入ってしまって出られないとか、そういう用件で然るべきプロが出動することに対し、税金の無駄だからやめろとクレームが付くことはまずありません。

 そのような扱いを受けるだけの、どんなことを猫がやってきたのかと言えば、単純に「可愛い」という一点なわけです。

 

 反対に、いわゆる不快害虫と呼ばれる生き物達がいます。

 物理的には特に人間に対して害を及ぼすところはないのに、精神的によろしくないというだけで、忌避、あるいは駆除の対象になり得る。

 そして、そういう発想と行動が、正当なものとしてこの社会に成立している。

 ビジュアル的に人間様の好感度を得られないということは、処刑宣告をしてもよいというところまで発展する、クリティカルな要素なのです。

 

 結論。人は可愛げのある存在以外、救いの手を差し伸べようとは思わない。

 

弱者の生存戦略

 そうなると、弱者がどう生きていけばいいのかが、それなりにハッキリと見えてきます。

 まずは、とにかく愛想を良くすることです。

 生まれ持った属性や時の流れをどうこうすることはできないので、男性に生まれて30年も経てば宿命的にオッサンになるわけですが、たとえそうであっても、せめて愛想の良いオッサンになること。

 これが弱者にもっとも必要とされるスキルの一つであると、私は思います。

 

 その意味でいうと、現役を引退してつましい年金生活をしている高齢者男性で、やたらと居丈高だったりする手合いは、本当に不器用というか、わかってないなあと思いますね。

 現役の頃にどんなプライドを築き上げたのかは知りませんが、ただの無職老人となった今となっては、そんなものは「なおさら誰も自分を助けようと思わなくなる」要因にしかなりません。

 胸の内になにが蠢いていようとも、それはそれとして、とにかく機嫌よくニコニコしていること。

 それを邪魔するプライドなどはお荷物でしかないので、1秒でも早く捨ててしまうべきでしょう。

 

 この点で個人的に怖いのは、認知症です。

 あの症状は、理性という名の制御機能を引っ剥がして、その人間の本質的な部分をモロに露出させるところがありますよね。

 そうなったときに、もし暴言吐きまくりの暴れまくり、みたいなキャラになってしまったら……まあ息絶えるまで放置とかはされないでしょうが、非常に「助けを受けにくい」存在になってしまうとは思うのです。

 少なくとも周囲の負担はかなりのものになる。

「良き弱者」になれなくなってしまう可能性を考えると、ボケるのは何としても回避したいな、という気持ちになります。

 一方では、それの裏返しで「迷惑上等、先にボケたもん勝ち」みたいな発想もなくはないところが、また微妙な心理なのですが……。

 

私の場合

 人生いろいろあって、私は現在、割と弱者の側に位置しています。

 その上コミュ障で、人に好かれる才能もないため、他者との繋がりによって救われるところがほとんどありません。

 まあまあハードモードであると言えます。

 

 でも、そうであるがゆえに、不貞腐れるのはやめようと心がけています。

 現状に不貞腐れて、不機嫌をそのまま表に出してしまったら、ただでさえ好かれない体質にブーストがかかって、いよいよ不快害虫への道を突き進んでしまうことになる。

 それだけは何としても避けようと、いつも適度に機嫌よくし、言動を丁寧にすることは徹底しています。

 べつにそれで誰かからお金を恵んでもらえたとか、そういう直接的な恩恵は今のところないのですが、たぶんこういう積み重ねがどこかには活きてくるだろうと。

 そう考えて、小さな小さなセルフブランディングを頑張っている次第です。

 

 このブログもそうですね。

 世の中には発想や文章力に才能を発揮する人が山ほどいて、そういう強者達のコンテンツは、愛想が悪かろうが、口汚かろうが、多くの人に受け入れられていきます。

 私にはそれは真似できないので、とにかく丁寧さと低姿勢を維持し、コツコツと支持を集めていくしかない。

 そう思って日々、更新を続けています。

 弱者には弱者の発信の仕方がある、ということですね。私はこの路線で、当ブログを大きくしていきたいと思っています。

 

おわりに

 漫画『るろうに剣心』の敵キャラ・志々雄真実の有名な台詞があります。

「しょせんこの世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ」

 主人公の剣心はその思想に真っ向から抗っていましたが、私は実のところ、この世の仕組みはおおむね志々雄の言う通り弱肉強食なのだと感じています。

 つまり、「弱き者を救う」というのも結局のところ「強き者の気まぐれ」であり、それは要するに「強者が好きなことをやっている世界」に他ならないのだろうと。

 

 もちろん世の中には福祉制度というものがあり、それらはなるべく弱者救済が「強者の気まぐれ」に依存しないかたちで実現するように構築されてはいます。

 しかしそれでも「キモくて金のないオッサン」の救済が立ち遅れたりと、どうしても民意すなわち強者と「弱くはない大多数」の感情が反映します。

 福祉のシステムもまた、対象に可愛げを感じるかどうかということから完全には逃れられないのです。

 

 というわけで弱者の皆さんは、とにかく愛想を良くし、自分にできる限りの好印象を保っておくことをお互いに頑張っていきましょう。

 そして少しでもこの社会からおこぼれをもらって、日々を何とか凌いでいきましょう。

 

 ああ、生きるってとても大変。