天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

加齢による精神の変化は年輪型で、奥には常に若い頃の自分がいる

 今日は、歳を取ることによる精神面の変化について、世の学説とか完全無視で私の考えをつらつら書いていきたいと思います。

 毎日少しずつ少しずつ老人に向かって進んでいくにあたって、戒めとしていきたいことも含まれています。その辺りが何らかのかたちであなたの参考になれば幸いです。

 

 

歳をとるということ

 まず結論から言ってしまうと、私はこの記事のタイトルのように考えています。

 歳を取って精神が変わるというのは、経験を積むことによって「思考が拡張された」結果として生じるのであって、「根底から構造が再構築された」結果ではないのだ、という発想がその前提。

 で、再構築ではなく拡張なのだから、その精神(あるいは思考、魂)の奥底には、常に若い頃の自分が昔のまま残っていて、きちんと呼吸もしているのだ、という主張です。

 

 人は変わるものだ、というのは常識的な見解です。変わらなければやっていけない場面が人生には多数存在する以上、変わらずに生き抜くのは困難を極めるでしょう。

 この「変わる」というのをストレートに捉え、大人になった自分は、もう子供の頃の自分とはまったくべつの生き物なのだ、という風に考える人もいます。

 しかし私は、そういうものではないよな、と思うのです。

 

 そもそも「変わるとはどういうことなのか」の定義が複数あるのが、ややこしいところなんですよね。

 例えば、ある環境xでaという言動をとっていた人間が、べつの環境yでbという言動をとるようになったとしましょう。

 このとき、言動がaからbに移行したのを見て「この人は変わった」と表現することは確かに可能です。

 いちばん簡単な言葉の使い方でしょう。

 

 しかし私としては、もうちょっとレンジを広く捉え、「環境xでaという言動をとり、環境yでbという言動をとる、そのパターン全体がその人の精神構造である」という風に考えるほうがしっくりくるのです。

 そして、この意味においては、この人物は「変わっていない」ことになる。以前と同じ精神が、条件によってアウトプットを切り替えているに過ぎないからです。

 

 歳を取ることによる変化についても、私はこれと同じようなかたちで捉えておりまして、環境や経験値の変化によって「同じところから出てくるものが条件によって変わっただけ」なのだという方向に解釈しているわけですね。

 それを便宜上「変わる」と表現しているだけ。

 この路線で考えると、認知症などは、「拡張部分が剥がれ落ち、核が剥き出しになったアウトプットをするようになる症状」という風になるでしょうか。

 

子供心を忘れるとは

 ですから私は、基本的に人はいつでも子供の頃に戻ることができるのだ、と考えています。

 ただし、それにはある程度のコストがかかる。

 今の自分がメインとして使っている経験、ノウハウ。そして今現在の自分を取り巻く環境。これらをいったん意識から取り除いて、すべてから解き放たれた自分の魂を深掘りする必要があります。

 これをするには、普段使っていないエネルギーを多めに使わなければいけませんよね。

 

 そのエネルギーを捻出できないことを「子供心を忘れる」などと呼ぶのだ、と私は考えているのです。

 今の自分の中に子供の頃の自分が存在しないから戻れないのではなく、エネルギー不足で深掘りできないだけなのだ、と。

 

 フィクションを見ていると――特に恋愛モノとかに多そうですが――「もうあの頃の私には戻れない」的な台詞がよく出てきますよね。

 これらはしばしばドラマチックに描かれますが、私に言わせれば、己の怠慢を吐露しているだけ。

「あの頃の自分」に戻ることで何かメリットを得られるのであれば、そんな口を利いているあいだに頑張ってエネルギーを溜めて、最新事情からの精神の解放と深掘りを必死で行うべきなのです。

 

大人になれないとは

 逆に「大人になれない」とは、経験による拡張が上手く行われていないことを指すわけですね。

 経験=外部からの刺激がそこでの目安ですから、「変化」の仕方、速さは、その人ごとにまったく違ってきます。

 たくさん行動するほどたくさん拡張が行われる――という単純なものではないでしょうが、ざっくりとした言い方をしていいのであれば、いろんなことをしている人ほどその頻度は高くなるでしょう。

 

 あくまでも拡張なので、核の部分は変わっていないというのが、くどいようですが私の主張となります。

「あの人は変わってしまった」みたいな表現がありますが、それはあくまでも表面上のノウハウを変化させただけ。

 条件が異なるから生存戦略も異なってくる、というだけの話なわけです。

 

 そういう意味では、長年引きこもりを続けている人などは「精神が若々しい」と言えるでしょう。

 経験による拡張回数が少なく、木で言うならば年輪の少ない状態のまま、肉体年齢だけを重ねているので、子供の頃からアウトプットの内容があまり変わっていないのです。

 それは良いとか悪いではなく、環境に応じた必然的な現象なわけですね。

 でもそれは「引きこもりを続けている人ほど子供心が失われていない」という意味ではない。ただ、子供心を取り出すのにあまり深掘りの必要がないだけなのです。

 

世代間の無理解の正体

 という考え方で世の中を見ていくと、中高年と若者とのあいだに、核のレベルでの精神構造の違いがあるとは感じられなくなります。

 世代による思考形態の違いは、単にその人が生きる過程で適応してきた環境の違いと、その拡張の回数でしかない。

 そして、拡張した回数が多い精神ほど正確な判断ができるようになるかというと、必ずしもそんなことはなく、最新の条件に対してはむしろ若くて剥き出しに近い精神のほうが適正があったりします。

 

 結局、最終的にモノを言うのは、個人の能力差。

 その辺りを考えずに、すぐ世代間闘争を始めてしまう人々に対しては、少し落ち着いたほうがいいのではないでしょうか、と言いたくなります。

 特に、自分のすぐ上の世代をジジババ呼ばわりし、逆にすぐ下の世代をクソガキ呼ばわりする人。

 要するに自分の経験した条件から1ミリでも離れると理解を示せないということなわけで、そういう人は能力的にも推して知るべしというところでしょう。

 

おわりに

 私は昔から、自分の年齢を言うのが好きではないんですよね。

 その情報をもとに、私について何かを決めつけてくる人が少なからずいるからです。

 その「決めつけ」は必ずしも悪いものばかりではなく、例えば相手が私より歳下であれば、場合によっては無条件に敬意を払ってくれることもあるのでしょうが、それも含めてあまり好きではない。

 だからネットでは、年齢を言わないことにしています(年齢層の予測がつく言動をすべて封印しているわけではありませんが)。

 

 しかしこういうスタンスを取る場合、それに見合うだけの「良い意味で年齢不詳な言動」が伴っていないと、無駄に歳を気にしているだけの痛い人になってしまうので、そこは気をつけなければいけないなと思っています。

 

 何というか……年齢って一種の呪いだよなあと、つくづく。