天国的底辺

二次元、創作、裸足、資格試験、その他諸々についての思索で構成されたブログ

「この作品には中身がない」という批評の「中身」って何?

 今日はタイトルにある通りの疑問について、私なりの考えを書いていきたいと思います。

 ごく普通に暮らしている人もそうですが、私のようにオタクをやっている人なら特に、この問題と縁を持たずに生きていくのは難しいのではないでしょうか。

 とにかく作品について何か言いたくなってしまう、そして人が何を言っているか気になってしまうのが、オタクのサガですからね。

 

 

まずは結論から

 で、本題に入るわけですが、まずはいきなり結論を書いてしまいましょう。

 私にとって「中身」とは、作品が「これを提供します」と言ったと受け手が感じたもの、のことです。

 従って「中身がない」というのは、それを受け手が高密度で受け取ることができない、という状態を表現したものということになります。

 

 ここで重要なのは、「中身」とはあらゆる作品に共通のものではないし、実際に作品がそれを提供すると言ったかどうかも関係ないということです。

 あくまで文字通りに解釈してください――『作品が「これを提供します」と言ったと受け手が感じたもの』です。

 つまり中身云々というのは、受け手の「お気持ち」と作品の関係についての話なのです。

 

実はこれ、定番の議論です

 ご存知の方はうんざりするほどよくご存知だと思うのですが、この「中身がない」という表現とその周辺についての議論は、ネットにおいて定番中の定番です。

 もしよろしければ「中身がない 作品」で検索してみてください。

 実際にそういう言い方で作品を貶している批評・感想がヒットし、「中身がないってどういう意味なの?」という議論がヒットし、「中身がないからといってつまらないとは限らない」みたいな、ちょっとひねった言説がヒットします。

 

 しかし歴史が長い割には、これという決定打がなく、それゆえに長年に渡って定期的に現れる季節行事みたいなものになっているのが現状です。

 

 これが議論になりやすいのは、基本的にこの表現を使う人に「鼻持ちならない自意識」が多かれ少なかれ見て取れることが多く、それを読んだ人の心の中に「こういう奴に何か一言突っ込んでやりたい」という気持ちが湧くからではないか、と私は推測しています。

「そんなんで上手いこと言ってやったつもりか?」みたいな感じでしょうか。

 ネットの民は、そういう態度を取る人にめちゃくちゃ厳しいですからね。

 

よくある「中身」の定義

 で、そういう議論において「中身」を説明する人は当然いるのですが、私の観測の範囲内で言うと、その多くが答を「ストーリー性」に求めています。

 ストーリーは面白いけどキャラクターに魅力がないから中身がないとか、映像的に見栄えのするシーンがないから中身がない、といった用法は、まず目にしません。

 ある意味、「中身がない」という表現を支持する人は「ストーリー厨」なのです。

 

 しかし彼らの説明がきちんとした説得力を持っているかというとそうでもなく、例えば簡単なところでは「ストーリー性って何?」という新しい疑問が浮かびますよね。

 この「~性」というのもまた曖昧な言葉の代表格みたいなものなので、「中身」を「ストーリー性」に置き換えたところで、ほとんど問題の先送りをしているだけと言えてしまうわけです。

 

 あえて説明できているっぽい体裁の意見を拾うなら、「伏線」「意外な展開」にその答を見出しているものが、その候補と言えるでしょうか。

 しかしこれらの意見は、ストーリーを作るにあたっての個別のテクニックに踏み込んで、「これこそが作品の核だ!」と宣言しているので、例えば「自分はあまり伏線とか興味ないんだよなあ」「べつに意外じゃなくてもいいんだよなあ」という人にはまったく効きません。

「伏線派」や「意外な展開派」がそういう人に対抗するためには、「こういうところに興味ない奴は作品の中身なんかどうでもいい奴なんだァ!」とやる必要が出てくるわけですが、さすがにそれは暴論というもので、言っている人を見たことはないですね。

 そうなると、これらの意見はちょっと狭すぎることになります。

 

 そもそも、マジで濃い人ならよくご存知の通り、ストーリーというのは最悪、まったく感じられなくても作品は成立してしまうものですからね。

 ストーリーを命のように考える人は、まだちょっと見聞を広め足りないのではないかな、というのが個人的な見解です。生意気言うようですが。

 

作品ごとに「売っているもの」は異なる

 そもそもの問題として、作品ごとに「何を見せたくて作られたか」という出自がまるで違うので、全作品に同じように当てはめることのできる「核の定義」を定めることが、宿命的に無理筋なんですよね。

 私の超大嫌いな料理の喩えであえて説明するなら、ラーメン屋に入ってそこで何か注文して、出てきたものに「寿司の魅力がまったくない」と文句を言うのがお門違いであるようなものです。

 

 英語圏のオタク用語に、CGDCTというのがあります。

 Cute Girls Doing Cute Thingsの略で、直訳の「可愛い女の子達が可愛いことをする」で、だいたいどんな概念を指す言葉かはわかるでしょう。

 海の向こうではこれが一つの作品形態として(ある意味日本より明確に)認識され、愛されたり貶されたりしています。

 もちろんあちらにも様々な議論があるのですが、一つ大事なのは、CGDCTにはCGDCTの「売り」があり、ある作品をCGDCTだと思って観るのなら、それを味わうために観るのが妥当である、ということです。

 この「作品と受け手のマッチング」が、中身云々の肝になる。

 

 難しいのは、作品が必ずしも「自分が何を売っているか」をわかりやすく提示するわけではないというところでしょうね。

 その場合、我々受け手は、与えられた僅かな事前情報からその作品のテイストを推測し、何を受け取れる作品なのかを推測し、それに基づいて、手を出すかどうかを決めることになるわけです。

 つまり、「その作品の中身は何なのか」を推測し、それを獲得しに行く。そういう行為。

 そこで上手くハマれば問題なしとなるわけですが、推測に間違いがあった場合、想像していた「中身」は(その作品の本旨ではないので)思うように得られないことになります。

 そのときに出てくるわけですね――「この作品には中身がない」。

 

 そして話は、冒頭の結論に戻るのです。

 

作品は受け手なしには誕生しない

 主にネットの話になりますが、批評したがる人は、その批評から「自分」を除去したがります。

「自分はこう思った」だと批評ではなく感想文になってしまう、だから作品に触れたのが自分であったことを切り離しても通用する客観的な言い方をする――ということなのでしょう。

 

 それが間違っているというわけではないのですが、彼らはその気持ちが強いあまり、しばしば存在するはずのない「普遍の物差し」を想定してしまいがちです。

 でも実際には、作品というのは受け手との接触によって初めて「本当の意味で誕生する」ものだと、私などは思うのです。

 従って、受け手の数だけ同じタイトルの作品が存在する。

 

 私は常日頃、これをプログラミング用語で整理しています。

 まず送り手が作り出した「作品」は「クラス」。それに触れた受け手が「作品だと認識したもの」は「インスタンス」。この関係において受け手は、クラスのコンストラクタに渡された引数にあたる存在。

 このような図式です(プログラミングがわからない方、すみません)。

 

 受け手が深く考えずに作品を語るとき、それはインスタンスを語っているのであって、クラスを語っているわけではないのです。

 クラスを語るには、作り手の意図を何らかのかたちで正確に把握するとか、数多くの類似のインスタンスを経験し考察してきた蓄積を応用するといったことを力とし、見事インスタンスからクラスに辿っていかなければならない。

 それをしない限り、どんなに詳細に語ったところで、それは「自分のインスタンスを報告しているだけ」なわけです。

 

 私見ですが、一人の人間が「クラスを語る」には、それなりの修練が必要となります。

 それはただ漫然といろいろな作品に触れてきたというだけでは、培われるものではありません。

 その意味で、私は「中身」という表現を振りかざすことに関して、「素人はやめておいたほうがいいと思います」と言いたいです。

 まず間違いなくその批評は、「私には中身がこれであるように見えました」という「自分と作品の関係」を語る以上のものにはなり得ません。

 そこに自覚的でないと、自意識の暴走した迷文以外の何物でもなくなってしまうので、お互いに注意が必要ではないかと思う次第です。

 

おわりに

 当初、この記事は「中身がないという批評はダメ批評」みたいな方向で書く予定でした。

 しかし「そういう批評からも何らかの学びを得られるからこそ、自分はこういう記事を書こうとしているのではないか?」と気づいたことで、主旨を変更するに至り、このような感じになりました。

 まあ、多少なりとも読めるものになっていたら嬉しいです。

 

 作品を嗜むという行為について私がつくづく思うのは、「大口を開けて何でも飲み込んでしまえる人が最強だな」ということですね。

 何も考えずにあらゆる作品を消化し、この作品からはこれが得られる、こっちの作品からはこれが得られる、おやこっちの作品からはこんなものが得られる――そんな風に縦横無尽にあらゆる「中身」を取り出してしまう人が、結局は一番幸せなんだろうなと。

 異論もあるかもしれませんが、私が目指したいのはそういう方向ですね。

 

 とりあえず、気をつけたいこと。

「性格は悪いが頭は良い」キャラを目指して辛口批評したい人が「中身がない」という言葉を用いるのは、やめておいたほうがいいです。

 99.9%、性格も頭も悪いキャラになってしまうと思います。