ネットを徘徊していると、いまいち好きになれない言葉というものがどうしても出てきます。
今日は私にとってそのうちの一つである「才能が枯れる」について、少し書いてみたいと思います。
主にクリエイター・表現者に対する評としてのそれを前提としているので、その認識でお読みいただければと思います。
才能とは何か
そもそも才能とは何か――というのは、今さらなテーマなようで、実は難しい問いだったりもしますね。
一般的に真っ先に出てくる表現は「とにかくすごいことができる力のこと」という感じでしょうか。
細かい議論をするのでなければ、これくらい大雑把なところで認識が終わっていても、べつに害はないところでしょう。
その「すごいこと」の例を少しだけ具体的に挙げるなら、成長速度が非常に速い、成長曲線の上限が非常に高い、そして通常出てこない発想が出てくる、あたりが典型でしょうか。
しかしここで一つ、その「すごさ」を形作る要素として忘れがちなものがあります。
それは、成長速度にしろ成長曲線にしろ発想の広さにしろ、推し量る際には比較対象として「普通の能力」を設定しなければならないことと、その人物に才能があるというキャラ付けが為されるには、他者の認定が必要であるということです。
生まれてからずっと自分一人しか人間がいない環境で育った者がいたとしたら、その人物は「才能のあるキャラ」には永遠になれません。
才能自体は単独で存在し得るものですが、「才能があると認識されている状態」は、才能を持つ者とそれを認めるものの双方を必要とするのです。
才能の枯渇も送り手と受け手の「共作」
これを踏まえて話を進めるのですが、いわゆる「才能が枯れる」という表現もまた、ものの送り手が他者に「そう認識される」ことで生まれるものに他なりません。
まず最初に「才能を持った人間である」と認識されたときがそうだったように、「その才能が今や枯渇してしまっている」という認識もまた、送り手と受け手との「共作」なのです。
ここで重要なのは、共作である以上、「才能が枯れている」という状態は送り手の実際の能力だけで決まるのではなく、受け手の能力や属性もそこに関わってくるということです。
乱暴な言い方をするなら、あるクリエイターがいたとして、その才能が枯れているとされるなら、それはもしかしたら客の状態のせいかもしれないということです。
大抵の場合、客の側はそのような発想はしません。才能が枯れるというのは、才能のあった者に何らかの変化があり、今は見る影もなくなったという現象だと考える。
そういうケースがメインであるのは否定しませんが、話はそれだけに留まらない――そこが私の非常に気になっているポイントなんですね。
才能が枯れるというのはどういうことか。
以下に、送り手の問題である場合と、受け手の問題である場合の両方の例を、幾つか挙げていきましょう。
送り手の問題
n個だけすごいアイディアを持っていた
ほとんど偶発的に、幾つか強烈なインパクトを持ったアイディアを持っており、それを世に送り出すことによって「才能を認められた」ものの、それを使い切ってしまったらそれっきりだった、というパターンです。
いわゆる一発屋と呼ばれる人の多くが、ここに当てはまるでしょうか。
この場合、そもそもそういうアイディアがその人の内にあったこと自体、才能と呼んでよかったものなのかどうか、私は疑問視しています。
上で「偶発的に」と書きましたが、斬新なアイディアというのは必ずしも「他人と別格な脳みそ」から出るものではなく、宝くじにたまたま当たってしまった的に「浮かぶ」ことも多いと思うのです。
そこを重視するなら、ここは「そもそも才能なんてなかった」と言うべきところなのかもしれません。
一時期たまたま世間と合致していたスタイルが合致しなくなった
世間というものは絶えず変化しています。
その不定形のアメーバみたいな世間が、一時期ある状態になったときに、ある送り手の持つ属性とぴったり合ってしまうことがあります。
そうなると、その送り手の作り出したものは大ヒットを記録しますし、結果として才能ある者として受け入れられることになる――成功の定番ですね。
しかし時の流れは残酷なもので、世間は間もなく次のかたちにうねうねと変わっていきます。
急激にすべてが変わるということはありませんから、最初のうちは気づきにくいのですが、やがて変化量が大きくなってくると、上記の成功した送り手の属性とのあいだに、明確な距離が生まれてしまうことがあります。
そうなると、もうその送り手のやることは、世間には刺さりません。
それが誰の目にも明らかになったタイミングで、例の言葉が踊ることになります――「あいつはもう才能が枯れてるから」。
変化することに積極的でなかった
上の例と関係することですが、変わっていく世間に対応するようにして自分もまた変わっていくことが、送り手が生き残るためには必要になってきます。
もちろん、ブレることのない「根っこ」も大切ですが、そこから伸びている茎のかたちや葉の向きなどについて、地上の環境に応じて柔軟に変わっていくことをしないと、早晩滅んでいくことになります。
その点、世の中には「変わりたがらない人」というのが結構おり、それはいったん成功を収めた者達も例外ではありません。
そういうタイプの「才能ある人」はむしろ、過去の成功体験が鮮烈であるためにそれに固執する動機もまた強く、いわゆる典型的な「過去に縛られた」状態に陥ってしまいます。
そうして、気まぐれで冷たい世間を呪いながら、落ちるところまで落ちぶれてしまうわけですね。
ネガティブ感情を源泉に活動していたが満たされてきた
どんな活動をするにも、モチベーションというものが必要です。
そして、人がその才能を伸ばして成功を収めるモチベーションの重要な一角として、自分の境遇や世の中の在りように対するネガティブな想いがあります。
こんな状況から一刻も早く脱したい、こんなくだらない世の中を変えてやりたい――そういう、どちらかといえば黒くてじめじめした感情が、人を伸ばすときには結構高品質なエネルギー源になったりするんですよね。
ところが才能を認められ、自己の環境が良化していくと、それによって心が満ち足りてしまい、ネガティブ感情が薄まってしまうことがあります。
楽しいから続けてきた人や、成功するにつれて新たな問題意識を見つけてきた人は大丈夫なのですが、ネガティブ感情をメインの動力にしてずっとやってきた人は、そこでいろいろな意味で「鈍ります」。
皮肉なことに、幸福を手に入れたことが、アウトプットに悪影響を及ぼしてしまうことがあるわけです。
受け手の問題
通り過ぎるべき場所にいつまでも座り込んでいる
世の中の創作物などは、必ずしもこの世のすべての人間に向けては作られていません。
わかりやすい例でいうと、アンパンマンはもう何十年にもわたって小さな子供に大人気のコンテンツですが、子供はいつか必ずそこから卒業していきます。
それは哀しいことでも何でもなく、その子供は次のステージに行き、また新たに生まれた子供がアンパンマンを好きになっていく。そういう循環ができているのですね。
こういう「人々が通り過ぎることが前提のコンテンツ」を生み出す送り手というのが、世の中には存在するわけです。
しかし、それらすべてがアンパンマンのようにわかりやすいわけではありません。
数年で客層が入れ替わることを前提に作られているけれども、そうであることが外形からはわかりにくいコンテンツというものが、結構あります。
その最も代表的な例が、少年漫画ではないでしょうか。
何しろ「少年」と付くくらいですから、少年でなくなったら厳密に言えばメインターゲットではなくなります。
しかし昨今、それが見えにくくなっている。
もちろん、いつまでも少年漫画を好きで読み続けるなら、それはまったく問題ありません。
厄介なのは、通り過ぎてなんぼの少年漫画に対して「この漫画家の新連載はかつてのアレとほとんど一緒だ」というように、いつまでもそこに留まっているがゆえに勝手に抱く不満をぶちまけている人。
彼らは、自分がそろそろ卒業シーズンに入っていることがわかっておらず、そこから来る不満の原因を、送り手の才能の枯渇に見出そうとするわけです。
己の内に過去の名作が蓄積されてきた
人が何かを面白がるとき、それが自分にとって未知のものであったから、という理由が結構大きいものです。
逆に言うと、「もう知っている」「見たことがある」ものは、たとえそれが素晴らしい出来であっても、そこを受け取ることができなくなってしまう。
そうするとどうなるかというと、優れたものを知れば知るほど、過去の名作が自分の中に蓄積されればされるほど、新しく入ってくるものに対して感動することが難しくなるわけですね。
その結果、ある送り手のアウトプットの品質に変化がなくても、受け手の比較対象がレベルアップしたことによって、「最近のあの人は色あせて見えるなあ」ということになりかねないのです。
送り手の一時期のスタイルと相性が良いだけだった
先ほど送り手の項目で「変化を嫌う送り手」に触れましたが、そうでない送り手も世の中の多くを占めています(と私は思っています)。
クリエイターなら、文章にしろ絵柄にしろ物語の傾向にしろ、時と共に何かしらの変化を見せるもので、それが意図的である場合もあれば、自然とクセが変わっていったというケースもあるでしょう。
そのような変化は、ある送り手の一時期のスタイルと相性が良かったことでその送り手を好きだった受け手にとっては、大きな問題となり得ます。
かつてあんなに魅力的なものを提供してくれていたのに、何で最近こんな風になっちゃったんだろう――そう思う機会がどうしても出てくる。
そのとき、その受け手に己を客観視できる力がないと、一直線に次のような結論に至ってしまうことになるわけです。
「あの人はもう才能が枯れてるから……」
非推奨ワード
とまあこんな具合に、「才能が枯れる」という言葉が言い表している状況は多種多様です。
よって、ある人がその言葉を使うとき、その人と送り手の関係においてどのケースに当てはまるのかというのは、個別に見ていかなければわからないものなのです。
でもこの言葉を使う人の多くは、あまりそういうことをちゃんと考えているようには(少なくとも私には)見えません。
その意味で、とても横柄でいい加減なものに感じられるのです。
だから私は、基本的に軽々しくこの言葉を使うべきではないと思っていますし、今まで特定の送り手を評するにあたって、この言葉で片付けたこともありません。
今後もたぶん使わないでしょう。
そのことで縛りが生まれていると感じたことは、まったくないですね。
実のところ、ちゃんと言語化しようと考えたとき、才能が枯れるだの枯れないだのといったものの言い方には、出番などほとんどないというのが私の感覚です。
おわりに
とはいえもちろん、私のこのスタイルを他人に強要するものではありません。
ただ、目の前の人物を手早くざっくり判断しなければならないときに、その人が「あの人はもう才能が枯渇してるから」と言っているのを見たら、「あ、この人とはあまり実になる話はできないかもしれないな」とは思うかもしれません。
……オチが思いつかないので、この辺で。