天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

言いたいことを言いたいように言うのが近道だと思っている人達

今日もどこかでエンカウント

 インターネット上にはいろいろな人達がいます。年齢も違えば、主義主張も違えば、受けてきた教育の高低も違います。

 それら多種多様な人達が見た目にはまったくフラットな状態で邂逅してしまうのがネット空間の特徴で、それはしばしば非日常的なコミュニケーションを生み出しますが、私個人はそのある意味混沌とした状況を昔から愛しています。

 

 とはいえ、ここで私が愛していると言ったのはあくまでも、本来なら直接相対することはなかったであろう立場の人間達が、同じ土俵で対等にやりとりできることです。

 その結果として毎日のようにあちこちで繰り広げられているいがみ合い、罵り合いの類は、決して面白いものではありません。

 もちろんそういうのをウォッチャーとして楽しむ趣味を否定するわけではありませんが、私としては、非生産的な衝突を目撃することは、基本的にとても疲れることです。

 

 そのようなネガティブなコミュニケーションは、私の観察する限りでは、概ね次の2つの要素によって成り立っています。

 第一に、言葉が攻撃的、一方的、独善的すぎる。

 第二に、それもあって不必要な曲解が簡単に生まれる。

 

やらかしているのは何者か

 そして、ここで非常に興味深い指摘をすることができます。

 例えば、言語能力やコミュニケーション能力が未発達な子供がそういったトラブルの元になることは、あまり不思議なことではありません。

 また、これはあまり良い表現ではないかもしれませんが、高い教育を受けてこなかった人達の言葉が客観性を欠き、狭い視野に基づいたものであったとしても、それは仕方のないことであると言えるのではないかと思います。

 

 しかし――これは特にTwitterでその傾向を見て取ることができるのですが、言葉が攻撃的、一方的、独善的なのも、それによって相手の言うことを不必要に曲解することも、子供や教育レベルの低い人達の専売特許というわけではありません。

 それどころか、高い教育を受けたはずの人達が、むしろ率先して内向きの尖った言葉を使い、自分と異なる思想を持った人間との軋轢を深め、非生産的な衝突と断絶を日々繰り返しているのです。

 

 それはもうすっかり見慣れてしまった光景で、今さらカルチャーショックを受けるようなことではないのですが、未だに疑問には思います。

 彼らの受けてきたはずの教育の中に、何をどのように表現すれば自分の中にあるものを実現することができるのか、というノウハウはなかったのかと。

 

彼らはもちろん理解されたがっている

 それが例えば、最初から相手との断絶を目的としたものであるのならば、趣味の悪さを指摘することはできますが、方法論としては成立しています。

 しかし、どうやらそういうわけでもない。

 特に政治的な話になるとそれが顕著になるのですが、私に言わせればほとんど「断絶するため」「自分がいかに思想的に閉じこもっているのかをアピールするため」でしかない言葉を吐いた人間が、その後本気で「相手を説き伏せることができないこと」を無念に思っているような発言をするのです。

 

 彼らを一言「未熟」と切り捨てる見方もあるかもしれません。

 しかし彼らは、この社会においてそれなりのポジションを獲得しており、決して単なる無知蒙昧というわけではないのです。

 つまり、何らかの信念、あるいは確信をもって、毎日のように攻撃的で一方的で独善的な言葉を垂れ流し続けている。

 

仮説

 私の仮説は、次のようなものです。

 彼らはもしかして、言いたいことを言いたいように言うのが、自分の中にある主義思想を実現するための近道であり、ネットの外においては様々な制約によってそれを実行することができなかった、と考えているのではないか。

 つまり、彼らはネット上にアカウントを持つことで「初めて無駄な回り道をしなくてよくなった」と考えているのではないか。

 

 もしこの仮説が合っているのだとしたら、彼らは高等教育で学んだはずの客観性や論理性、そして「人の話を理性的に聞く」という姿勢を、いわば「ちゃんとした肩書きを持っている人間が備えなければならない、面倒な体裁」くらいに思っていた、ということになります。

 

 SNSによって、ようやく物事を本来的に言い表すことができるようになったのだと。

 だから、冷静な議論ができないのではなく、しない

 そんなものはオフラインに課せられた社会的制約に過ぎないから。

 

そこに生産性はない

 しかし言うまでもなく、そのようなコンセプトで紡ぎ出された言葉が、自分と異なる考えを持った人間を突き動かすことなど、到底できるはずもありません。

 もともと「他人の考えを自分の思うように変える」などということはほとんど不可能であるところ、彼らはその想いとは逆に、より一層の無理解を作り出してしまっているのです。

 

 知性が足りないのではなく、知性の使い方を間違えている。

 

 それなりの肩書を持った人達が、Twitter上で何も生み出さない侃々諤々の「口喧嘩」をしているのを眺めながら、こういうのは何によって乗り越えられるものなのだろうと、いつも考えます。

 少なくとも今の俗世には存在しない、新しい教育が必要なのかもしれません。

 強固な思想を持てば持つほどそれを相手に伝える技術が損なわれてしまう、という事態を避けるための、何か新しいメソッドです。

 

世界中で起きている

 そして、こういうのは決して日本だけの問題ではないということが、最近になってよくわかるようになりました。

 かつては「欧米では子供の頃からきちんとした議論を行うための教育を施す」という認識が蔓延しており、日本もそれを見習わなければ、などと殊勝なことが言われていたものですが……。

 今や世界中で、思想の対立が、そんなんじゃ相手に伝わるわけがないだろうというロジックと表現で展開されているのが容易に観測できます。

 

どうすればいいのか

 知性や教育不足の問題ではない。

 だから極めて真っ当なルートで大人になっても、その罠から逃れるのはとても難しい。

 

 これって何なんでしょうね。

 あまりにもそういう虚しいやり取りを観察し過ぎて、今の私には「何が良きことなのか考えること」自体が胡散臭いというか、危険なことに思えてしまいます。

 それを失くしたらそれはそれでオシマイだろうと、自分に突っ込みを入れる力も最近弱くなってきました。

 

 いずれにせよ、一言。

 ああはなりたくないものです。