
私は趣味で文章を書く人間です。
pixivで性癖全開の裸足フェチ小説を公開していますし、かつて「プロとしてデビューできたらいいなあ」くらいの気持ちでラノベ新人賞に長編小説を応募していた時期もあります。
こうしてブログを持っていることからもおわかりの通り、基本的に文章を書くのが好きで、それが創作にも向いているというわけです。
で、最近この活動に関係するもので一つ、急に欲しくなったものがあります。
それは、シュレッダーです。
別に隠語でも何でもなく、文字通りのシュレッダー。紙を細かく裁断してくれる機械のことですね。
シュレッダーを購入することで、自分の創作活動が俄然活発になるのではないか、作るもののレベルが大きく向上するのではないか――そんなふうに考えるようになったのです。
といっても、いきなりこれを読んだ方は「はあ?」と思うでしょう。
紙を裁断できるようになることが、どうして創作を捗らせることになるのかと。
この記事では、その辺についてちょっと書いてみたいと思います。
風が吹けば桶屋が儲かるように、シュレッダーを買えば創作が捗るのではないか。
そんな私の妄想に、ちょっとだけお付き合いいただければ幸いです。
シュレッダーが創作を捗らせるかもしれない理由
まず大前提として、現状の私の創作活動は、そのほぼすべてがパソコンで行われています。
プロットの断片的なメモから、キャラクター設定、世界観の構築、そして本文の執筆、推敲、完成稿の保存に至るまで、文字通りパソコン一台で完結しているのです。
Ctrl+Zで無限に時間を遡行できる全能感、検索機能で物語の端々に散らした伏線を一瞬で確認できる利便性。
これらが最も生産性を高めるツールだと信じていますし、何より長いことキーボードを叩き続けている身としては、思考を文章に変換する速度が、もはや手書きの比ではありません。
体に染み付いてしまっているんですね。
世の中には、スマホやタブレットで素晴らしいアウトプットをされる方も大勢いらっしゃいます。
私も両方持ってはいますが、正直なところ、それらを使って何かを「創り出そう」という気にはなかなかなれません。
フリック入力では、長文を紡ぐのに必要な思考のリズムが生まれないのです。
それに、基本的にシングルタスクに特化している思想が、どうにも馴染めない。
資料とテキストエディタを頻繁に行き来する、みたいな使い方には絶望的に向いていないと感じるのです。
しかし、ここで第三の選択肢が浮上してきます。それが、紙の利用です。
昔ながらのアナログな手法ではありますが、デジタルが当たり前になった現代においては、むしろ「あえてやる」ことに価値が見出せるのではないか、と。
インクが紙に染み込む匂い、ペンが走るカリカリという音、積み上がっていく原稿用紙の束。
そんな文豪めいた情景への、漠然としたロマンチックな憧れが、心のどこかにあるのです。
では、なぜこれまでうまく紙を利用できなかったのか。
それは、使い終わった紙を処分する際のプライバシー問題が、ずっと喉に刺さった小骨のように気になっていたからです。
自分の内面を、性癖を、妄想を、丸裸にして書き殴ったような紙切れ。
それが誰かの目に触れるかもしれないという恐怖。
これが、地味に、しかし確実に私の足を引っ張っていたのです。
そこでシュレッダーの出番、というわけです。
個人的すぎる内容が印刷された紙も、シュレッダーで木っ端微塵にしてしまえば、もう誰の目に触れる心配もありません。
この絶対的な安心感こそが、私を紙を使った創作へと開放してくれる鍵なのではないか。
そう考えた瞬間は、大げさでなく、暗闇に差し込んだ一筋の光のように思えました。
紙とデジタルと創作活動
最近は文章を書くのも絵を描くのもデジタルが主流で、紙を使うのはよっぽどこだわりのある人だけ、みたいな風潮がありますよね。
かくいう私も、特にデジタル至上主義といった固いポリシーがあるわけではないのですが、結果としてデジタル一辺倒でやっているのが現状です。便利ですから。
しかし、わかっているのです。紙には紙の、抗いがたい長所があることを。
私の場合は小説などの文章を書くわけですが、たとえば本番の文章を清書するのには、手書きは効率が悪すぎます。
ですが、アイディア出しの段階における「殴り書き」の自由度は、デジタルの比ではありません。
ふと浮かんだ着想を、箇条書きと簡単な相関図を組み合わせてメモしておきたい。
そんなとき、パソコンを立ち上げるより、手元のノートとペンですらすらと書き付けたほうが、思考の勢いを殺さずに済みます。
デジタルツールのようにきれいに整頓された線やテキストボックスでは表現できない、思考の混沌そのものを写し取れるのです。
矢印がぐちゃぐちゃに交差し、あとから追記した小さな文字がひしめき合う。
そのカオスな紙面こそが、新しい物語の源泉になったりするわけですね。
あとは「お試し印刷」という使い方も、非常に魅力的だと感じています。
ある程度書き進めたプロットや本文の初稿を、とりあえず紙に印刷して眺めてみる。
いつも見ているモニターからの能動的な発光ではなく、部屋の明かりを反射する受動的な紙の上の文字として客観視する。
たったそれだけのことで、文章のリズムの悪さや構成の歪みが、不思議とくっきりと見えてくることがあるのです。
まるで、何度も見ていたはずの漢字が突然わからなくなるゲシュタルト崩壊のように、見慣れたはずの自分の文章が、まったくの別物として目に飛び込んでくる。
この「視点の強制リセット」こそ、創作の停滞期には何よりの特効薬になり得るのです。
このように、紙をうまく活用することで、創作活動の生産性が大きく……とまでは言えないかもしれませんが、少なくともその質や深度が向上することは期待できる。
私の中では、ほぼ確信に近いものとして、そうした思いがありました。
問題は自宅で紙を使いづらいこと
しかし、紙の短所もまた明白です。
手書きはデジタル入力に比べて圧倒的に遅いとか、そもそも机の上にノートを広げるスペースの確保が意外と難しいとか、まあ色々とあります。
ですが、個人的に最大の短所だと感じているのは、前の項でも少し触れた「処分の面倒さ」に尽きます。
これに比べれば他の短所など些細なことです。
たとえば、推敲のために小説の本文を50枚くらい印刷したとします。
赤入れをして、その役目を終えたとします。
さて、これをどう捨てるか。
そのまま捨てるのであれば、それは「燃えるゴミ」ではなく「資源ゴミ(古紙)」として出すのが一般的でしょう。
しかしそれは、自分が書いた小説の本文が印刷された紙束を、誰でも手に取れるゴミ置き場にそのまま放置することを意味します。
考えすぎだ、誰もそんなもの見やしないよ、と思われる方が大半でしょう。
私も頭ではそう思います。
ですが、感情がそれを許さないのです。
たまたまゴミ捨て場を漁る人がいて、興味本位でそれを持ち帰ったら?
妄想が妄想を呼び、恐怖はどんどん膨れ上がります。
この問題は、単なるゴミ捨ての作法というレベルを越えて、「創作意欲そのものを削ぐ呪い」として機能していました。
何かを紙に印刷しようとするたびに、脳裏にこの処分の面倒さがチラつき、「ああ、やっぱりやめておこう。デジタルで完結させた方が精神衛生上よっぽど楽だ」という思考停止に陥ってしまう。
創作とは作者にとって、ある意味で子供のようなものです。
たとえその子が未熟で、世に出すには恥ずかしい出来であったとしても、その裸体を無造作に公衆の面前に晒すような真似は、親として耐え難いのです。
シュレッダーへの賭け金は約1万円
さて、そこで救世主として私が発想したのがシュレッダーの購入なわけですが、一口にシュレッダーと言っても、そのお値段はピンからキリまであります。
手動の安価なものから、オフィスに鎮座するような高額な業務用まで。
そんな中で私が目をつけたのは、アイリスオーヤマの製品です。
「マイクロクロスカット」という方式で、紙を単に縦に細長く切るだけでなく、横方向にも裁断して、2mm×11mmという米粒のようなサイズにまで細かくしてくれるらしいのです。
これならゴミとしてかさばりませんし、何より印字された内容の判読は、基本的には不可能でしょう。
この秘匿性が、私の心を強く打ちました。
そしてこの製品が、約1万円するのです。
現在、私はこの1万円を出すか出さないかで、非常に悩んでいる、というわけです。
1万円あれば、それなりの期間を食いつなぐことができるわけで、決して軽い金額ではありません。
もし、シュレッダーの導入によって本当に私の創作活動が活性化し、これまで滞っていた部分がスムーズに流れ出すのであれば、1万円など安い投資です。
貧乏な私にとって大金であることに変わりはありませんが、ここ最近の己の創作活動に抱いていた停滞感を打破する刺激になるのなら、むしろ大歓迎です。
「ガガガガッ」という裁断音が、次の創作への号砲のように聞こえる未来を想像すると、胸が躍ります。
しかし、逆の可能性も十分に考えられます。
期待して買ってみたはいいものの、結局たいして紙を使うこともなく、シュレッダーはただでさえ狭い部屋のスペースを圧迫する、ホコリをかぶった単なる黒い置物と化してしまうかもしれない。
そうなった場合、1万円はドブに捨てたも同然……は、さすがに言いすぎかもしれませんが、「ほら、言わんこっちゃない」という自分の中の冷ややかな部分がせせら笑うのが目に浮かぶようです。
私の頭の中では今、「行け! 創作のためだ!」と叫ぶ天使と、「やめておけ、どうせ使わなくなるぞ」と囁く悪魔が、激しいプロレスを繰り広げているのです。
おわりに
というわけで、シュレッダーを買えば私の創作活動が捗るかもしれない、という、一見すると突飛な妄想に思えるお話でした。
こうして自分の悩みを文章にしてみたことで、漠然としていた問題の輪郭が、はっきりとしてきました。
私が抱えていたのは単なる物欲ではなく、「紙の処分のしづらさ」という具体的な問題が、創作の自由度を縛る心理的な枷になっていた、ということなのです。
デジタルにはデジタルの、紙には紙の、それぞれ優れた点があります。
アイディア出しは自由度の高い紙で、清書や推敲は効率の良いデジタルで、というハイブリッドな創作スタイルを確立できれば、今よりもっと創作が楽しく、豊かになるのではないか。
シュレッダーは、そのための心理的な安全装置であり、いわば創作世界への新しい扉を開けるための「鍵」のようなものなのかもしれません。
とはいえ、約1万円の出費はやはり悩ましいところです。
この投資が未来の傑作(自分で言うのもなんですが)に繋がるのか、それとも無駄遣いの歴史に新たな1ページを刻むだけなのか。
この記事を書いた今も、まだ判断はつきません。
しかし、この行為が単なる道具の購入ではなく、「自分の創作に対する本気度を試すための儀式」のような意味合いを帯びてきたようにも感じています。
さて、風が吹けば桶屋が儲かる、ということわざに倣えば、シュレッダーを買うことで私の桶屋は儲かることになるのでしょうか。
すぐに答えを出さずに、このワクワクと不安が入り混じった心地よい葛藤を、もう少しだけ味わってみるのも、また一興かもしれませんね。