天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

楽しい趣味もノルマを設定すると急に苦痛になる

言うまでもなく、趣味というのは楽しいものです。
趣味がなければ人生真っ暗……というわけではありませんが、趣味を持っていることで日々の暮らしに張りが出て、充実したものになっていくのは間違いないところではないでしょうか。

趣味が高じると、いろいろと積み重ねたいものが出てきがちです。
より大規模なものを計画し、大きなものを生み出したい――そんな願望ですね。
しかしそのためには、まとまった作業量が必要になります。
それはなかなか自然に実現できるものではなく、自分で趣味の内容についてノルマを設定し、コンスタントに生み出していかなければならないでしょう。

しかし、ここに一つの罠があります。
ノルマを設定した途端、急にやる気がなくなってしまう――あなたはそんなことを経験したことはありませんか?

実は私は、このことにめちゃくちゃ悩まされています。
本記事では、そのことについて思うところを書いていきたいと思います。

私の趣味は文章書き、本当に楽しいし健やかになる

今のところ、私の最大の趣味は「文章を書くこと」です。
仕事でもWebライターとして文章を書いていますし、こうしてブログも運営しています。
それだけでは飽き足らず、10年ほど前から個人的に小説なんかも書いたりしているわけです。
なかなかの「文章人間」なんですよね。

でも、本当に楽しいんですよ。
何もない、ただの真っ白な画面や紙の上に、自分の指先や声を通じて意味を持った文字列が紡ぎ出されていく――この瞬間が、たまらなく快感なのです。
それがどんなにつたない文章でも、何かものすごく有意義な創造活動をしている、そんな気分にさせてくれるのです。
世界に新しい何かを生み出した、とでも言えばいいのでしょうか。
大げさかもしれませんが、私にとってはそれくらいの喜びがあるわけです。

特に私の執筆スタイルで特徴的なのは、音声入力をメインに据えていることでしょうか。
もちろん、キーボードで入力することもあります。
推敲の段階では、むしろキーボードの方が効率が良い場面も少なくありません。
しかし、ゼロから文章を生み出していく、あの最も創造的な瞬間においては、音声入力が私の最高の相棒なのです。

頭の中で鳴っている言葉を、そのまま息に乗せて発する。
それがリアルタイムで文字に変換されていく様は、何度体験しても飽きない、実にエキサイティングな体験です。
まるで自分の思考が直接的に世界に顕現していくような、そんな不思議な感覚すら覚えます。
これがもう、楽しくて楽しくて仕方がない。

これは気のせいかもしれないのですが、音声入力で文章を書いていると、なんだか体の調子まで良くなってくる気がするのです。
深く息を吸い込み、そして言葉を乗せて吐き出す――この一連の動作が、何か特殊な呼吸法にでもなっているのでしょうか。
詳しいメカニズムは見当もつきませんが、集中して音声入力を続けていると、気分がスッキリするんですよね。
文章を生み出すという精神的な充足感だけでなく、肉体的な健やかさまで手に入る(かもしれない)なんて、まさに至れり尽くせり、言うことなしです。

ここまで聞くと、次のように思われるかもしれません。
「そんなに文章を書くのが好きで、しかも心身ともに良い影響があるのなら、さぞや毎日ものすごい量の文章をコンスタントに生産できているのでしょうね?」

私もそうありたいと心の底から願っています。
ですが……実は、胸を張って「その通りです!」とは、とても言えない状況にあるのです。
なんとも情けない話ではありますが。

しかしノルマを課して作業を始めると、途端に苦痛に

では、なぜ私は、文章を書くことがめちゃくちゃ好きなはずなのに、大量の文章をコンスタントに生産できていないのでしょうか。
毎日、暇さえあれば言葉を紡いでいてもおかしくないはずなのに、現実はそうなっていない。
これは一体、どういうことなのでしょう。

その最大の原因は、何を隠そう、本記事のタイトルにもある通りなのであります。
「いつまでにこれくらいの文章を書こう」とか「今日は最低でもこの分量は進めよう」というふうに、自分で自分にノルマを設定する。
たったそれだけのことで、あれほど楽しかったはずの文章執筆が、途端に重苦しい苦痛の作業へと変貌してしまうからなのです。

これは正直、自分でも本当に不思議で、そして厄介な心の動きだと感じています。
だって、そうでしょう?
ノルマを設定したからといって、書く内容が突然つまらないものに変わるわけでもない。
使う言葉が変わるわけでもない。
それなのに、どうしてあんなにも楽しかった行為が、突然牙をむいて襲いかかってくるような、つらいものになってしまうのでしょうか。

たとえば、私は時折、小説の新人賞などに応募してみようかと思い立つことがあります。
そういった賞の応募規定を見ると、大抵は原稿用紙換算で数百枚、文字数にして10万文字以上といった長編作品が求められることが多いのです。
10万文字、これはなかなかのボリュームです。
しかし、仮に毎日5,000文字ずつ書くとすれば、単純計算で20日間あれば初稿が完成するはずなのです。

1日5,000文字というのは、集中すれば決して不可能な数字ではありません。
むしろ、本当に文章を書くことが好きなのであれば、夢中になって書いているうちにあっという間に到達してしまうくらいの文字数ではないか、とも思えます。

ところがです。
「よし、この新人賞を目指して、毎日5,000文字書くぞ!」と意気込んでスケジュールを組んだ途端、話は変わってしまうのです。
楽しく打ち込めるはずの5,000文字という目標が、まるで巨大な岩壁のように私の前に立ちはだかる。
一行書くのにも、大量の精神的なエネルギーを消耗するような感覚に陥るのです。

そうなるともう、パソコンの前に座ること自体が億劫になり、ついには「今日はもうダメだ……」と白旗を揚げてしまう。
そんなことの繰り返しなのです。

というかそもそも、もっと根本的な疑問も湧いてきます。
本当に、心の底から文章を書くことが大好きなのであれば、そもそもノルマなんて設定する必要すらないのではないか?
寝食を忘れて没頭する、という言葉がありますが、まさにそのように、誰に強制されるでもなく、自ら進んで書いて書いて書きまくって、結果として自然に大量の文章が生み出されている――というのが、本当に「好き」な状態なのではないでしょうか。

そう考えていくと、ノルマを設定しなければコンスタントに書けない自分というのは、もしかしたら、そこまで文章を書くことが好きではないのではないか……?
そんな恐ろしい疑念すら頭をもたげてくるのです。

しまいには、自分の「好き」というその気持ち自体に、疑いの目を向けてしまうことになる。
これは、なかなかしんどい自己問答と言わざるを得ません。

なぜ文章執筆にノルマを課すと急に苦痛になるのか?

文章執筆という、私にとっては大好きなはずの行為にノルマを設定すると、どうしてこうも急に、強烈な苦痛が生まれてしまうのでしょうか。
この不可解な現象について、私なりにいくつかの仮説を立ててみました。

もちろん、これが正解だという確証はどこにもありません。
ただの、一介の文章好きの悩み多き考察に過ぎませんが、もし同じようなことで悩んでいる方がいらっしゃれば、何かの参考になるかもしれませんし、ならないかもしれません。

仮説1:脳の中で仕事と混同してしまう

まず一つ目の仮説は、私の脳が、趣味の文章執筆と仕事の文章執筆を、どこかで混同してしまっているのではないか、というものです。

前述の通り、私はWebライターとして生計を立てています。
これもまた、文章を書くことを生業にしているわけですから、基本的には好きなことを仕事にできている、恵まれた状態だと言えるでしょう。
実際、この仕事自体には大きなやりがいを感じていますし、天職だとすら思っています。

しかし仕事である以上、そこには当然ながら「ノルマ」という概念が存在します。
もっと直接的に言えば「納期」や「締切」ですね。
クライアントから依頼された内容を、定められた期日までに、一定の品質で納品する。
これがプロとしての責務です。

そして、この仕事のすべての工程が楽しいかと言われれば、残念ながらそうではありません。
資料集めや構成案の作成、専門外の分野に関するリサーチなど、時には地味で骨の折れる作業もあります。
そして何よりも、迫り来る締切のプレッシャーもそれなりにあります。
体調が悪かろうが、気分が乗らなかろうが、とにかく期日までに仕上げなければならない。

この「やらなければならない」という義務感は、やはりどうしても、ある種のストレスや負荷を伴います。
どんなに好きな仕事であっても、この部分に関しては「楽しくない気持ち」を抱いてしまうのは致し方ないことでしょう。

もしかしたら、趣味の領域であるはずの小説執筆やブログ更新に、「いつまでにこれだけ書く」というノルマを設けた瞬間、私の脳は無意識のうちに、これを「仕事」のカテゴリーに入れてしまうのではないでしょうか。
そして、仕事に対して抱いている、あの締切前のヒリヒリとした緊張感や、「やらされ感」といったネガティブな感情が、純粋な楽しみであったはずの趣味にまで流れ込んできてしまう。
その結果、あれほど自由で楽しかったはずの行為が、途端に「こなすべきタスク」へと変質し、重苦しい苦痛を感じるようになるのではないか――これが、私の立てた仮説の一つなのです。

いわば「楽しい仕事モード」ではなく「しんどい仕事モード」のスイッチが、趣味の領域でも誤って押されてしまう、そんなイメージでしょうか。

仮説2:スケジュールというものに対して無自覚なトラウマがある

二つ目の仮説は、もしかしたら私自身、自覚していないだけで、「スケジュールを組み立て、ノルマを課す」という行為そのものに対して、何か過去のトラウマのようなものを抱えているのではないか、という可能性です。

これは、自分でも「まさかそんな」と思いたいところではあります。
特に、スケジュール管理で大きな失敗をして誰かに迷惑をかけたとか、ノルマが達成できずにひどく叱責されたとか、そういった具体的な記憶が鮮明にあるわけではありません。
しかし、人間というのは不思議なもので、自分では忘れてしまったような些細な出来事や、あるいはもっと幼い頃の経験が、無意識の領域で心の重荷になっている、なんてこともあるのではないでしょうか。

そうでなければ、まったく同じ「文章を書く」という作業を、ただ単に「ノルマを設定するか、しないか」という違いだけで、気分が天国から地獄ほどに変わってしまうなんてことが、果たしてあり得るのでしょうか。
作業内容も、使う道具も、期待される成果物も、基本的には何も変わらない。
それなのに、心持ちだけが劇的に変化する。
これは、何か根深いところに原因があると考えるのが自然ではないか、という気がするのです。

もしかしたら、過去に何か、計画通りに物事を進めようとして、それがうまくいかなかった経験。
あるいは、締め切りに追われて精神的にひどく追い詰められた経験。
そういったものが、心の奥底に澱のように沈殿していて、ノルマという言葉を聞いた瞬間に、当時のネガティブな感情や身体感覚が無意識のうちにフラッシュバックしているのかもしれません。

自分ではその因果関係に気づいていないだけで、体が、心が、拒否反応を示している。
そう考えると、あの不可解な苦痛にも、少しは説明がつくような気がしてくるのであります。
あくまで仮説の域を出ませんが。

仮説3:実はそんな大量に作業できるほど好きではない

そして三つ目の仮説。
これは正直言って、あまり考えたくない可能性ではあります。
しかし、目を背けずに直視しなければならないのかもしれない、とも思うのです。
それはつまり、もしかしたら私は、自分が思い込んでいるほどには、文章を書くという行為そのものが「大好き」ではないのではないか?
という、身も蓋もない仮説です。

もし本当に、他の何を差し置いてもやり込みたいほど、寝食を忘れるほどに文章を書くことが大好きなのであれば、どうでしょうか。
おそらく、ノルマなんてものを意識するまでもなく、内から湧き上がる衝動に突き動かされるようにして、四六時中、言葉を紡いでいるのではないでしょうか。
睡眠時間を削ってでも、遊興の時間を返上してでも、あらゆる種類の文章を書きまくり、その結果として、自然と膨大な量の作品が生み出されていく。
そういう状態こそが、真に「大好き」と言えるのかもしれません。

しかし、現実はどうでしょう。
私は、ノルマを設定されると途端に筆が止まる。
そして、ノルマがなければないで、ついつい他のことに時間を費やしてしまい、結局のところ、自分が期待するほどの量の文章を生産できていない。

この事実を冷静に受け止めると、もしかしたら私の文章に対する「好き」という感情は、「そこそこ好き」「まあまあ好き」という程度のものであって、まだ本当に心の底から、魂が震えるほどに好きなものには出会えていないだけなのではないか――そんな、少し寂しい結論すら見えてくるような気がするのであります。

もちろん、これはあくまで最悪のケースを想定した仮説です。
そうではないと信じたい気持ちは山々なのですが、自分の感情というものは、時として自分自身にも嘘をつくものです。
この可能性も、頭の片隅には置いておく必要があるのかもしれない、そう思う今日この頃です。

どうすればコンスタントに文章を生産できるのか?

さて、ここまで3つの仮説を並べて、自分なりにああでもないこうでもないと考察を巡らせてきたわけですが、この中に真実が含まれているのかどうか、正直なところ、今の私には判断がつきません。
もしかしたら、どれも的を射ていないのかもしれないし、あるいは複数の要因が複雑に絡み合っているのかもしれない。
それは、誰にもわからない、私だけの心のミステリーです。

しかし何にせよ、私が切望しているのは「では、どうすればコンスタントに文章を生産できるようになるのか?」という、実際的な解決策です。
たとえ、なぜ苦痛を感じるのかという根本的な理由が解明されなかったとしても、とにかく、楽しいはずの執筆活動を、ある程度のペースを保ちながら続けていきたい。
そして、頭の中に浮かんでいるたくさんの物語やアイディアを、少しでも多く形にしていきたい。
これが、私の偽らざる願いです。

こういう、「何かを継続したいけれど、なかなか続かない」という悩みに対して、よく処方箋として提示されるのが、「習慣化」という概念ではないでしょうか。
曰く、最初のうちは意志の力が必要かもしれないけれど、とにかく毎日同じ時間に同じ行動を繰り返していれば、やがてそれが生活の一部となり、何の苦痛も感じなくなるどころか、むしろそれをやらないと何か気持ち悪い、落ち着かない、という感覚にすらなるのだ、と。
歯磨きやお風呂のように、生活に不可欠なルーティンとして組み込まれていく、というわけですね。

確かに、これが実現できれば理想的です。
意志の力に頼らずとも、体が自然と作業に向かうようになるのですから。

しかし、個人的な経験から言わせていただくと、私はこの「習慣化」のメカニズムというものを、あまり全面的には信じていません。
もちろん、効果がある人もいるのでしょうし、特定の行動については有効なのかもしれません。
ですが、こと「創造的な作業」に関して言えば、どうも一筋縄ではいかないような気がしてならないのです。

実際、過去に何度か「よし、毎日この時間に必ず書くぞ!」と意気込んで数ヶ月続けたものが、ある日突然、本当に何の前触れもなく、プツンと糸が切れたように、すべての意欲が失せてしまうことがありました。
昨日まであれだけ頑張って積み重ねてきたことが、まるで砂上の楼閣だったかのように、あっけなく崩れ去ってしまう。

そして一度失われた意欲は、そう簡単には戻ってこない。
むしろ、以前よりも強い抵抗感すら覚えてしまう始末。
そんな経験を、一度ならず繰り返してきているのであります。
ですから、「数十日間続ければ大丈夫」という甘い言葉には、どうも懐疑的にならざるを得ないのです。

では、一体どうすればいいのでしょうか?

この問いに対する明確な答えは、残念ながら、今の私には出ていません。
まさに現在進行形で、ああでもないこうでもないと頭を抱え、試行錯誤を繰り返している、そんな悩みの真っ只中にいます。

もし「ノルマを設定しつつも、それがノルマであることを脳に悟られないようにする」といった、まるでトリックのような方法があれば素晴らしいのですが、具体的な手段となると、これがなかなか思いつかない。

「遊びの延長線上」で、いつの間にか大量の作業をこなしてしまっている、というような状態が理想的なのかもしれません。
子供が夢中になって積み木で巨大な城を築き上げるように。
しかし、大人の趣味、特に「成果物」を意識してしまうような趣味においては、その純粋な没入感を維持するのは至難の業なのではないでしょうか。

本当に、どうしたものなのでしょう。
この問いは、まるで出口の見えない迷路のように、私の頭の中をぐるぐると巡り続けています。
何か画期的なアイデアが天から降ってくるのを待つばかりでは、埒が明かないのもわかっているのですが。

おわりに

さて、ここまで長々と、私の個人的な悩み――楽しいはずの趣味である文章書きに「ノルマ」を設定した途端、それが苦痛に変わってしまうという、まことに厄介な現象について書き連ねてきました。

文章を書くこと自体は、私にとって何物にも代えがたい喜びであり、創造の快感であり、さらには心身の健康にすら寄与してくれる(かもしれない)素晴らしい行為です。
しかし、ひとたび「いつまでに、これだけ」という具体的な目標を掲げた瞬間、その輝きは色褪せ、重苦しい義務感がのしかかってくる。
この不可解な心の動きに対して、仕事との混同、スケジュールへの潜在的なトラウマ、あるいはそもそも「そこまで好きではない」可能性といった仮説を立ててみましたが、どれも確たる証拠はなく、依然として謎は深まるばかりです。

そして、どうすればこのジレンマを解消し、コンスタントに文章を生み出せるようになるのかという問いに対しても、残念ながら現時点では明確な答えを見いだせていません。
「習慣化」という一般的な解決策も、私の経験上、万能薬とは言い難い。
まるで禅問答のようですが、「ノルマを意識せずにノルマを達成する」というような、矛盾をはらんだ理想を追い求めているのかもしれません。

趣味というのは、本来、日々の生活に彩りを与え、心を豊かにしてくれるものであるはずです。
それが、ほんの少しの意識の変化で苦痛に転じてしまうというのは、なんとも皮肉な話ではないでしょうか。
この記事を読んでくださっているあなたも、もしかしたら似たような経験をお持ちかもしれません。
もし何か良い知恵や、あるいは共感の声だけでもお寄せいただけたら、これほど嬉しいことはありません。

結局のところ、この問題に対する特効薬はなく、これからも私は、この「楽しさと苦痛の狭間」で、試行錯誤を続けていくことになるのでしょう。
本当に、どうしたものでしょうか。