当ブログは常にコメントを開放しており、読んでくださったどなたでも自由に感想を書いていただけるようになっています。
露骨な誹謗中傷のたぐいが他の読者さんの目に留まってしまうのは問題なので、承認制を採用させていただいていますが、ほとんどの場合は承認しないと言う事はありません。
これまで承認しなかったコメントは、一件だけです。純度100%の短文煽りだったので、さすがに承認の意味なしと判断いたしました。
そんな中、先日書いたとある記事に対して、ちょっとした辛辣なコメントをいただきました。
そのコメントが「ある意味で」とても学びに富んだものであったので、この記事ではその内容について、そしてそこから学び取れるものについて、少し書いてみたいと思います。
今回起きたこと
問題の記事を、以下に紹介します。
タイトルにある通り、Webライティングの仕事をしていて初めて、これははっきり失敗したなと言えるような失敗をしてしまった、というエピソードを語ったものです。
私としては、この失敗を教訓にするとともに、こうしてシェアすることで、今Webライターを志している人や、私と同じく駆け出しの人が、同じような失敗をしないように、というメッセージを込めたものでした。
しかしそれに対して、次のようなコメントをいただいたのです。
「文章を直すスキルも画像を追加する根性もなかったから手を抜きました」→「クライアントに気を利かせて修正を省略しました」
「クライアントの指示を無視して手を抜いたらクビになりました。だから指示には真摯に従いましょう」→「所詮この世は、いかにクライアントに頭を下げて媚び諂うかが全て。様々な技術もゴマ擂りのためにある」
「Webライターおよびフリーランスに向けたアドバイス」に見せかけて「ライターの裁量や独自性を認めず、道具としか見ていない傲慢なクライアントに振り回された哀れな被害者である俺」と言いたいことがよく分かる。
一言でいってしまえば、このコメントは「誤解」であり、もう少し聞こえの悪い言い方をするのであれば「誤読」です。
まあ、文章というものは宿命的に一定率で誤読をされるものなので、気にするべきではないと言われればそうかもしれません。
しかし、今回、それで片付けるには惜しいくらいに、私はこのコメントから学びを得られたんですよね。
どういう学びを得られたのか?
それについて詳しく説明していきましょう。
コメント分析
コメントを読んでいただければわかりますが、まあどのように解釈しても、好意的とは言い難い内容ではあります。
しかし、単にヘイトをぶつけられていると捉えて終わりにするだけでは惜しいものが、このコメントにはあると私は思いました。
最大のポイントは、このコメントが本文よりも行間のほうを重視している、ということです。
もう少し違う言い方をするのであれば、私の文章そのものよりも、私の文章の言葉の端々から「自分が感じ取ったもの」に、重きを置いているということです。
つまり、私の文章よりも自分の感覚の方を大切にした結果、このようなコメントが生まれたというわけですね。
それが最も顕著に表れているのは、「一見すると」私の文章を引用しているように見える箇所です。
通常、カギ括弧を使って相手の文章を引用してみせるときは、ほぼ一言一句違わないように引用するのがマナーというか、常識でしょう。
そうすることによって初めて、「あなたはこう言ったが、それに対して私はこのように考える」というようなパターンの主張をすることが可能になるわけです。
しかしこのコメントの場合、私の書いた記事と比較していただければわかりますが、引用の時点ですでにこの方の独自解釈が含まれてしまっているんですよね。
しかもその言い回しが、できるだけ私を「くだらないことを考えている人物」に仕立てようと懸命になっているものであり、それをステップにして「わかっている自分が突っ込む」というかたちを実現しようとしているのです。
これがどういうことかというと、つまりこの方は、私の言葉ではなく、私の言葉を改造した自分の言葉で興奮してしまい、その熱を私にぶつけているのです。
自分の言葉に自分でキレた結果、ほんのり制御不能な状態に陥ってしまっている――というのが、このコメントの本質なんですよね。
このように書くと、この方の知性と理性を侮辱しているように感じるかもしれませんが、これは実のところ、どの人間も陥る可能性のある罠です。
文章のどこかの部分に引っかかりを感じ、それが文章全体に対する印象を決めてしまい、そこから逆算するかたちで残りの部分の解釈が組み上がってしまう――いったん冷静さを失った人間は誰でも、このようなムーブをしてしまいかねないのです。
私がこのコメントに対して面白味を感じたのは、まさにその点です。
私達の誰もが学ぶことのできるものが、このコメントには実にわかりやすく含まれているな、と感じたわけです。
私の文章の問題点
「では、お前の文章には何の責任もないのか?」
このような突っ込みをしようと身構えている人もいるかもしれませんが、それに対する答は明白です。
文章を書いた者の責任、いわゆる文責というものは、いかなる場合にも存在します。
今回においても、私の文章を関する私の責任は厳然として存在しており、それを否定しようというつもりはまったくありません。
しかしそれと同時に、文章というものはどのように書いても必ず一定の誤解を招くものであり、そこに対していちいち「私が悪かったです、ごめんなさい」という態度をとるのも違うだろうと、私は考えます。
世界中のどの人間にも誤解されない究極の文章を目指すことは大事だと思いますが、実際問題としてはすべての文章が「修行中の身で生まれたもの」であり、不完全なのは当たり前なのです。
そこをことさら深刻に捉えようとは思ってはいません。
ただ、それはそれとして自己分析をするのは有意義な試みだと思いますので、ちょっとやってみましょう。
まず、今回誤解された最大の原因は、ちょっと冷静に書きすぎた、ということではないかと思います。
これは私の癖なのですが、文章に感情を込めるというのが苦手で、どうしても天から見下ろすような、良くも悪くもフラットな文章になってしまうのです。
そのことがこの場合、「自分に非があるということを本当はまったく考えていない」という風な解釈に繋がったのではないでしょうか。
それから、途中で一ヶ所、指示通りに行うのは面倒臭いと思ったことも否定できない、という言及をしたのも、誤解を加速させる原因だったような気がします。
この箇所は正直、要らなかったですね。
もっと文章の焦点を明確にして、ただただひたすら自分の実力が足りなかったということを強調するような方向で文章を構成するべきだったのではないかと、今にしてみれば思います。
後は……そうですね、身も蓋もない謝罪を言葉にするべきだったかもしれません。
クライアント様、申し訳ありませんでした、というような言葉です。
これがあれば、他に多少の問題点があったとしても、恐らくすべては「私が反省している」という文脈に回収されたのではないかと思います。
この点に関して、私に多少の気恥ずかしさがあり、謝罪というダイレクトな表現を選ぶことができなかった、という面は存在しますね。
もっとプライドを捨てて文章と向き合うべきなのかもしれないな、とは思います。
本記事に同種のコメントがつくとしたら
ところで、本記事に対して、今回取り上げたコメントと同じような思考回路でコメントが付けられるとしたら、その内容はどのようなものになるでしょうか。
それについても、ちょっと考えてみたいと思います。
まず、このような反応が来るのではないでしょうか。
「こんな記事を書くということは、元のコメントに対してよほどムカついたんですね」
これに対する答は、ノーです。
実のところ、私はいただいたコメントに対して、まったくと言っていいほど腹を立てていません。
本当にシンプルに「学びを得られる」という風に感じたので、今この記事を書いているんですよね。
それに、私に対して嫌悪感を示すコメントではあったものの、露骨な罵詈雑言ではまったくないので、その意味でもOKだと思うんですよ。
そのようなものに対して、わざわざ長文で「反撃」するほどに腹を立てるエネルギーは、原則として私にはありません。
そこまで気に食わなかったら、二件目の非承認コメントに選んで、さっさと忘れてしまうほうに進む性格ですので。
それから、次のような反応もあるかもしれません。
「結局のところ、自分は何も悪くない、問題がないということが言いたいだけだろ?」
これも違いますね。
もし本当に自分が悪くないということを主張したいのであれば、前項を設けたりはしません。
私としては、元のコメントの主さんに対して何かが言いたいのではなく、「人というのはこういうことをしてしまうものなのだ」みたいな、もっと大きなこと、私達全員に適用できることを、抽出したかったんですよ。
――まあ、このようなことをいくら並べたとしても、誤読する人はするものであり、どうしようもないんですけどね。
ただし、そのような誤読をできるだけされないような文章を書くよう努めることが大切である、と私が強く意識していることは、重ねて強調しておきたいと思います。
まとめ(教訓)
以上、いただいたコメントから私が考えたことについて、軽くですが解説してみました。
今回の出来事から得られる教訓は、以下のようなものでしょうか。
- 他人に突っ込みたいときは、行間を読むよりまずは本文をしっかり読んで受け止めるべき
- 他人をいきり立たせる前に、自分がいきり立ってしまったら終わり
- どのように誤読されたとしても、真摯に文章を書いていこう
繰り返すようですが、今回いただいたコメントに見られるものは、私達の誰もが見せてしまう可能性があるものです。
私達が考えている以上に、この可能性は日常のあちこちで口を開けて待っていますので、お互いにこういうことはできるだけ避けるよう、気をつけて生きていきましょう。
それにしても、あの案件を逃してしまったのは惜しかったなあ……。