天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

「自分探しの旅」の正しいやり方・突っ込み方

 今日は、いわゆる「自分探しの旅」について、思うところを書いていきたいと思います。

 私自身はそもそも旅行というものに興味がまったく湧かない人間なので、必然的に自分探しの旅ともまったく縁のない人生を送ってきました。

 なのでまあ、他人事として書くわけですが、気になるところのあるトピックではあったりするのです。

 

 考えながら書いていくので、どんな記事なるか現時点では見えていないのですが、何とかかたちにしてみましょう。

 

 

自分探しの旅の流行とそれへの揶揄

 自分探しの旅、という言葉とその行為が流行ったのは、結構前のことだったと思います。

 2000年は過ぎていましたっけ? 正確なところは思い出せないのですが。

 私の周囲には、そのような旅を実行した人はいなかったのですが、世の中的にはそれなりの数の人(特に若者ですね)が、そういう名目で海外などを旅していたと聞いています。

 

 行き先としては、どの辺りが人気だったのでしょうね。

 何となくのイメージとしては、そういう目的の場合には欧米はあまり目的地として選ばれない気がします。

 それよりは、東南アジアとか、そういう「ちょっと後進」の国が人気だったのではないかと想像するのですが……どこかに有意なデータはあるのかなあ。

 ちなみに、現在の東南アジアは部分的には日本より発展していたりもするのでしょうから、自分探しの旅が流行した当時とは、ニュアンスも随分変わっているとは思います。

 

 さて、そんな風に自分探しの旅が流行っていたわけですが、そうなると当然のこととして、それを揶揄する言説も流行りました。

 曰く、自分は自分だろ。探すも何も、まさにそこにいるじゃないか。どこかに本当の自分があって、生活の拠点から遠く離れればそれが見つかるかもしれないというのは、控え目に言っても現実逃避、実のところは病的な妄想なじゃないのか――。

 

 私はその両者に対して、次のような感想を抱きましたし、今もそれはあまり変わっておりません。

「自分探しの旅に出る人と、それを揶揄する人。正直どっちもズレてる」

 

「自分はそこにいるだろ」という突っ込みの無意味さ

 まず、揶揄する声のどこがズレているのかについてですが……。

 一言でいうなら、こうなりますね。

「自分探しの旅における自分探しとは、文字通りの意味ではないので、そこにそのまま突っ込んでも意味がない」

 

 自分探しの旅をする人が何をしたいのかと言うと、実際のところ「探したい」ではなく「変わりたい」なんですよね。

 もちろん、全体として良い方向に。

 そのためのスイッチを求めて、旅に出るわけです。

 普段の生活を送っている限り(少なくとも自分のスキルでは)見つけることも押すこともできないスイッチを、まったく違う境遇に置くことで押せるかもしれない。

 そこに賭けて、行動に出ているんですよ。

 

 経営コンサルタントで起業家の大前研一さんは、人が変わる方法は3つしかない、と主張しています。

 時間配分を変えるか、住む場所を変えるか、付き合う人を変えるかの3つ。

 旅に出ると、一時的にではありますが、この3つがすべて、普段とは変わりますよね。

 なので、いつもなら入れることのできないスイッチを入れるですとか、新しい価値観を自分の中に芽吹かせるですとか、そういうことの契機としては、そう間違っているとは言えないのです。

 

 それに対して、「自分はそこにいるだろ」と突っ込むのは、いかにも足りていません。

 そんな言葉遊びみたいなことしか言えないのは、日常によって精神がすり減っている証拠かもしれませんので、それこそ旅にでも出てみるのがよいのではないかと、私などは思ってしまうわけです。

 

多くの旅が無意味に終わった理由と対策

 しかし、自分探しの旅をした人達が、それによって見事に新しい自分を発見し、飛躍的に成長したかと言うと――その「成功率」はどうやら低かったようです。

 いや、これもデータを見たことがあるわけではないので(というか内面的なことなのでデータの取りようもない気がします)、勝手に言っているだけなのですが、結局単に旅行しただけで終わった、というケースがほとんどであったように思います。

 

 つまり、自分探しの旅をする側も、そっちはそっちで致命的にズレているところがあったわけです。

 

 それは何かというと、あくまでも私の意見ですが、「旅先で何かスイッチが入ったとしても、その後の日常を意識的に組み替えなければ効果は消える」ということをわかっていなかい人が多かったのではないでしょうか。

 先述した大前さんの言葉をもう一度考えると、これらは次のようにまとめることができます。

「人間の在りようは、環境と習慣をどう作るかで決まってくる」

 たとえ旅先で何か「新しい自分を探せた」としても、帰ってきた後の日常のかたちが元のままでは、結局またそれに染まってしまうので、意味がないんですよね。

 

 つまり、自分探しの旅は、それによって得た何かを使って、帰った後に自分の環境や習慣をカスタマイズすることに、本質があるわけです。

 家に帰るまでが遠足、という言葉がありますが、自分探しの旅はさながら、帰ってからが本番なのです。

 旅に出た人の多くは、旅だけでそれを完成させたつもりになってしまった。

 だから思ったような効果を見せることができなかったのでしょう。

 

おわりに

 という具合に、自分探しの旅については、それをやった人達に対しても、突っ込みを入れている人達に対しても、それは違うだろうという思いを抱いていた次第です。

 今回、ちょっとこのことについて思い出す機会があったので、このように記事にさせていただきました。

 

 まとめますと、「旅によってガラッと自分を変えようという発想はアリ。しかし変わった自分が帰宅後の日常を変えなければ意味がない」ということです。

 自分を探して旅に出る人は、後のことを大切に。そしてそういう人を揶揄したければ、後のことができていない点をきちんと突くようにしましょう。

 

 というわけで、この辺にしておきます。