天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

ネットは人を強く見せるものであることを念頭に置いておこう

 皆さんはネットを見ていて、他人のエネルギッシュな感じに圧倒されそうになった経験はないでしょうか?

 私はあります。その時期においては、誰も彼もが積極的で行動的に見え、どうやったら1日24時間しかない中でこれだけのことができるんだろう、と驚嘆しながら、見上げるように観測していたものです。

 当然ながら、それとの比較で「本当に自分はどうしようもないな」と落ち込んだりもしましたね。

 

 しかし、時間が経つにつれ、そのような考えからは脱却していきました。

 ネットというのは基本的に、人を元気に見せるものである――ということに、ある程度の時間をかけて、ようやく納得できるようになったからです。

 あえて自分を大きく見せようとせずとも、皆なんとなく自分の駄目なところ、非生産的なところは晒さずにネットをやっているもので、その結果、私達は自身の「キャラクター」だけを、本体とはべつのものとして強化してしまいがちなのです。

 

 今日はネットのそういう面について、具体例を挙げながら考えてみたいと思います。

 

 

ケース1:健康そうな人が、実はそうでもない

 ネットをやっていると、「お腹が痛い」的な小さなことを何のかんのと口にしながらも、総体としては皆、健康に暮らしているかのように観測できます。

 そういうのを見ていると、すぐにエネルギー切れや不調を起こしてしまい、満足に活動できなくなってしまう自分が、どうしようもなく弱小な生き物に思えてきます。

 自分の生き物としてのランクが、平均値よりだいぶ下のほうにあって、どう頑張ってもそれを覆すことはできないように感じられたりするのです。

 

 しかし、実際には皆、そこまで健康でもなければ、生産的でもありません。

 やるべきことをヒイヒイ言いながら何とかこなし、なけなしの時間で一所懸命にやりたいことをやる――その様子を積極的に報告することで、先述したように、その人の「キャラクター」が勝手に大きく強くなっているだけなのです。

 

 ここで認識しておくべきなのは、私達は相当に不調でも、それを隠して元気そうにネットで活動することができる、ということです。

 まず、怪我などはその最たるものですね。

 あと少しで命を落とすところだった、というような大怪我をして病院に担ぎ込まれた人でも、意識さえあれば、自分の言葉をネットで発信することはできます。

 実際には半身不随等の酷い状態に陥っていたとしても、言葉の世界では健常者とまったく同じ土俵に立つことができるわけです。

 

 同じことは病気にも言えます。

 難病を患っている人、そこまで行かずとも厄介な問題を抱えて日々生活している人。

 そういった人達も、特に虚勢を張るとかではなく、「あえて病気のことを語るまでもないだろう」的に伏せることで、ネット越しにはまったく普通に人に見えるのです。

 むしろ、そういう状態にあるからこそ、楽しめることを目一杯楽しもうとしている人も多く、それがキラキラと輝いて見えることもあるでしょう。

 

 そういうことを最も強く感じたのは、アニメ監督の今敏さんが、膵臓がんで亡くなる直前にTwitterを始めたときです。

 ほとんどの人がそうだったと思いますが、私も最初、今監督がまさか末期がんで余命数ヶ月という状態でTwitterを開始したなどとは、夢にも思っていませんでした。

 監督は最後までネット上では自分の病状を伏せ、創作についての積極的な言葉を紡ぎ続けていましたが、それが監督なりの、病気への抵抗だったのでしょう。

 

 あれ以来ですね。私がいかなるネット上のアカウントにおいても、その性質を見た目のままに受け取らなくなったのは。

 それくらいの衝撃がありました。

 

ケース2:強気な人が、実はそうでもない

 ネットには、とにかく前向き、そして強気な人が多いですよね。

 どういう生き方をしてきたら、そこまで自分に自信を持つことができるのだろう、と首をひねってしまうような人が、そこらじゅうにゴロゴロいるのがネット空間です。

 それぞれ確固たる自分の意見を持ち、信念に裏打ちされた言葉を発信し続けている。その姿はまるで異次元人であり、そのまま受け取ってしまうと、自分との意識の格差に愕然としてしまうことになります。

 

 しかし、彼らのその前向き・強気の正体が、実は単なる思慮不足とか、いわゆる虚勢でしかなかったりすることが、存外多いんですよね。

 これは短期的にはなかなかわからないことなのですが、ある特定の人物を数年にわたって観察し続けていると、ここぞというところで逃げのダブスタを披露したり、論調がガラッと変わったりすることがあるのです。

 そこで初めてわかるわけです。通常時に見せているアグレッシブなスタンスが、実は結構ハリボテで、薄っぺらい後ろ盾や思い込みや偏見を取り込んで成立していたのだということが。

 

 私見ですが、本当に気が強い人かどうかというのは、普段どんな言葉を発信しているかではなく、何が起きようとも同じノリを維持し続けられるかどうか、みたいなところで、より正確に判断できるのではないかと思いますね。

 

ケース3:悩まなさそうな人が、実はそうでもない

 ネットには、恐ろしく行動的な人がいます。

 後ろを振り返らない、という表現がありますが、まさにそれを地で行くような人。毎日のように何かしらのチャレンジをし、大きな意思決定を次から次へと下していき、圧倒的に人生を積み重ねていく人です。

 

 まるで彼らの人生には、何の障害も用意されていないかのように見えます。

 それくらい、ためらいですとか、決断に際しての不安ですとか、そういったものが見えない。

 何かとすぐ不安に陥る私のような人間からしてみると、彼らはまるで、何かを心配する回路が故障しており、まったくのノーコストで「ひたすら突き進む」ことができてしまう人種であるかのように映るのです。

 

 しかし、実際にはそんなことはありません。

 いや、これについては実測ではなく、論理的に考えればそうなる、という話でしかないのですが、彼らだって毎日いろいろなことで思い悩んでいるし、何かにチャレンジするときにはそれなりに不安や恐怖と戦っているはずなのです。

 ただ、それを表に出すことを決してしないのでしょう。そういう態度に、自己暗示のような効果を期待しているのかもしれません。

 彼らの心も、きっと細かい傷でいっぱいなのです。それがネットではすっかり隠れてしまい、結果として「無敵の人の上位層版」みたいなキャラクターが出来上がっている、ということなのでしょう。

 

ネットの他人に気後れする必要はない

 周囲の人達があまりにも元気で、行動的で、弱ったところを見せないと、調子を狂わされてしまうことがあります。

 もしかして、「傷つく」「疲弊する」という現象が起きるのは、この世で自分一人だけなのではないだろうか――そんな錯覚さえ湧き上がってくる。

 大袈裟ではなく、ネットにはまりこんでいると、それくらいの発想には簡単に行き着いてしまいます。

 

 しかし、そこは落ち着いて判断すべきです。

 もちろん世の中にはいろいろな人がいますから、あなたの物差しを遥かに逸脱した存在がいるのも確かでしょう。

 しかし全体としては、そのような人材はレアなものです。大抵の場合、あなたが見ている相手は、あなたとそう変わらない、普通のもろい人間なのです。

 たとえ社会的地位や名声があなたとは雲泥の差であったとしても、人としての本質はそんなに変わるものではありません。

 

 いろいろ想像してしまうのは仕方ないことですが、くれぐれも「ネットから受け取れる他人のキラキラした姿」を見て、自分をみじめに感じることは控えておきましょう。

 むしろその姿勢が先にあることで、本当に落ちていってしまう危険性もあるのではないかと、私は思います。

 自分から自分を下げに行ってはいけないのです。

 

おわりに

 かくいう私も、自分の駄目なところをいろいろ隠してネットをやっています。

 これを書くと「え、すでにかなりの駄目キャラなのに?」と思われるかもしれませんが、はい、その通りです。

 リアルの私は、当ブログやTwitterアカウント等から受け取れる以上に、ものすごく、とてつもなくイケていない人だったりするのです。

 決してネットで虚勢を張ろうとしているわけではないのですが、恥ずかしいところを曖昧にしているうちに、勝手にそうなってしまうんですよね。

 

 というわけで、自分にもそういうところがあることを忘れず、あまり他人の振る舞いを馬鹿正直には捉えないよう気をつけながら、常日頃ネットを利用しています。

 もちろん「ネットだから見える、その人の本質」みたいなものもあるとは思うのですが、隠れてしまう部分はそれ以上に大きい。

 

 良い意味で、「そもそもネットで人のことなんか正確にわかるわけがないのだ」という諦観を持って、活動していきたいですね。