先日、ふとしたことから『パタリロ!』について回顧する機会がありました。
今は作品内容にあまり興味が持てなくなったことから、距離を置いてしまっているのですが、もともと私はこの作品の大ファンで、自宅にはコミックスが88巻まで揃っています。
今日はこの作品について、社会情勢を少し絡めた話を展開してみたいと思います。
簡単な作品&キャラ紹介
この作品を知らない人のために、簡単に説明しておきましょう。
『パタリロ!』とは、先日第100巻が刊行された、ギャグ少女漫画の金字塔です。
TVアニメ化もされたことがあり、すでに連載開始から40年が経っている。
最近になって、作者の魔夜峰央さんがかつて世に送り出した未完の作品『翔んで埼玉』が謎のブレイクを果たしたことで、本作の名前もメディアを通して目に入ってきた、という人が多いのではないでしょうか。
その『パタリロ!』の中に、ある2人のキャラクターが登場します。
1人はジャック・バンコラン。英国MI6に所属する凄腕の情報員で、実に第1話から登場している、主人公パタリロの次に重要と言っても過言ではないキャラクターです。
そしてもう1人は、アーサー・ヒューイット。米国CIAの、これまた凄腕の情報員で、レギュラーキャラクターではないものの、長年にわたってしばしば登場し、とても強い印象を残してきたキャラクターです。
他にも無数のキャラクターがいるのですが、今回この2人に着目したのには、ある理由があります。
バンコランは「美少年キラー」の異名を持つゲイ。そしてヒューイットは、生粋のロリコンなのです。
端的に言ってしまえば、2人ともいわゆる性的マイノリティなわけですね。
そう、実は今回、この作品を思い出したのは、性的マイノリティについて考える機会があったときに、この2人――バンコランとヒューイットのことを、思わず連想してしまったからなのです。
かつては両者とも耽美な変態だった
『パタリロ!』は、実に40年以上連載されている長寿漫画です。
それゆえに、初期と現在では、キャラクターの在りようも少なからず変わってきています。長期連載をしていれば、多かれ少なかれ必ず起きることですね。
作者の個人的な変化も影響しているのでしょうが、実社会から受ける影響も少なくないはずで、ある程度はキャラクターの扱いを、世間の風潮に合わせて変えてきた面があると考えるのが自然でしょう。
さて、そこで問題になるのが、先述した2人の、性的マイノリティとしての活躍のさせ方です。
初期の扱いは、一言でいうと、「どちらも変態扱いではあるが、しかしそれを作品内では肯定的に取り扱う」というものであったように思います。
べつの言い方をするならば、アブノーマルなものを、だからこそ美しく描く、という感じでしょうか。
例えば、第41巻「薔薇の友」のラストシーンでは、パタリロが「男同士でも女同士でも同性愛は変態的」と話すくだりがあります。
この台詞は、かつてこの作品が同性愛をどのように扱っていたかということを、端的に表しているものであるように思います。
愛のある同性愛描写が多いにもかからわず、一方では「変態」という表現も使う。
この作品の中では、両者はきっちり両立するものだったわけです。
ロリコンのほうにも、同じことが言えます。
第38巻の「ヒューイットおおいに悩む」においては、いろいろあってヒューイットに好意を寄せることになった9歳の少女が、自らオールヌードになって彼を誘うシーンがありました。
もちろんそれは未遂に終わりましたし、パタリロにしっかり変態扱いされてはいたのですが、シーンとしては基本的に「ロマンティックに」描くスタンスを取っていたと記憶しています。
要するに、ゲイの描写も、ロリコンの描写も、本作においてはほぼ同じスタンスで取り扱われていたわけです。
時代とともに2人の扱いは分岐した
今さら説明するまでもないことですが、近年は性的マイノリティの権利を尊重しようという動きが、欧米を中心としてとても活発です。
LGBTとか、LGBTQとか、あるいはもっと長い名称もあるようですが、ともかくそれに該当する人達は、「少なくとも建前の世界においては」強い権力を持つようになりました。
今や先述の「薔薇の友」に登場した台詞などは、現役のものとして発表しようものなら、その筋の人達からクレームがついて、大問題に発展してしまうことでしょう。
マイノリティ保護には、他の人権を打ち破る勢いが良くも悪くもあって、表現の自由は、その手のポリコレ運動の前に萎縮してしまいがちなのです。
しかしそんなLGBT(あるいはもっと長いやつ)の中に、ロリコンは含まれていません。これから含まれそうな気配もまったくありません。
それどころかむしろ、その扱いはかつてよりも酷いものになっており、「ロリコンは正義の名のもとにどれだけ迫害してもよい」という認識が、広く一般に浸透しているところがあります。
それを受けて――かどうかはわかりませんが、『パタリロ!』の作品内におけるヒューイットの「地位」も、どんどん低くなっていきました。
ひたすらその属性を雑にいじられる展開がメインになり、しまいには「ロリータ道」なる、陰陽道的なバトル能力まで登場させるというギャグ化に行き着いてしまったのです。
そこには「ヒューイットおおいに悩む」の面影は微塵もなく、「けちょんけちょんにする以外に扱いようのないもの」としてのロリコン属性だけが見て取れました。
この世のすべての作品がそうだというわけではないのですが、少なくとも『パタリロ!』は、そういうロリコンとの距離の取り方を選んだわけです。
ロリコンに明日はない
様々な性的マイノリティの中で、なぜロリコンだけがそういう扱いを受けるのかといえば、それはもちろん、彼らの興味の対象が「庇護すべき未成熟な存在」だからです。
年端も行かぬ少女達に「自分のことを自分で決める力」があるとは考えられておらず、ゆえに同意があっても、そういう行為は犯罪であるとみなされるわけです。
そういう風潮に対する私のスタンスは、次のようなものです。
「一定の理解を示すことに抵抗はないけど、おかしなところもあるよね」
例えば、子供の意思を尊重するというのも人権運動の大切な側面であるはずなのに、性的なことになった途端、「彼らには自己決定能力がないのだ」の一点張りになるのは、いわゆるダブルスタンダードにあたるのではないでしょうか。
最近では、自分の裸を撮影してネットの知り合いに送る子供達がよく問題になりますが、それって完全に自由意志じゃん、みたいに思うのです。
でも現実には、「それをそそのかし、写真を受け取った者」が罰せられ、子供達は純然たる被害者と位置づけられてしまうんですよね。
同様に、かつてヌード写真集を出したような子供達の中には、自分の意思でそれをやりたいと考え、決定した者もいるはずなのです。
なのに、今ではすべてが「被害者」ということになっている。
いわゆる児ポの単純所持禁止は、良き思い出として自分の写真集を保存している女性達からも、それを奪う結果となりました。
全体として、こと性的な面に関して、児童保護の概念は雑なのです。
しかし、この辺をどれだけ訴えたところで、世の中の流れはもう変わらないでしょう。
子供のえっちはとにかくダメなのであり、恐らくはそれを受けるかたちで、ヒューイットのロリコン属性は、フザケの度を強めていく方向に転がってしまったのです。
以前も記事にしたことですが、私は表現というものを「現実の完全なスーパーセットであるべき」だと考えています。
それはつまり、現実に存在するすべてを表現可能とした上で、さらに、想像することのできるすべても表現可能であるべき、という考え方です。
その立場から言わせていただくと、『パタリロ!』におけるバンコランとヒューイットの地位が大きく分かれたことには、とても残念なものを感じます。
出版する側の事情もいろいろあるのでしょうから、単純に作者の魔夜さんに対して「日和った」などと評することはできないのですが、初期の感じをずっと貫いて欲しかったな、というのが正直な気持ちであるのは、声を大にして言っておきたいところですね。
おわりに
先日、5chのキャラ個別板で、こんな書き込みを見つけました。
「ホモとロリコンのハイブリッドみたいでキモイ」
そのとき咄嗟に思ったのは、「それってショタでは」……とかではなく、こういう発言に対して、いわゆる人権派の人達はどういう反応するだろう、ということでした。
「尊い同性愛者と、薄汚い小児性愛者を一緒にするな!」的に、片方だけすくい上げる論法を使うような気が、凄くします。
そしてそれに対して、こう思うのです――そこに迷いは無いのですか?
どちらも性的マイノリティであり、そのことで周囲からの圧迫感を感じたり、その他いろいろな生きづらさを感じているかもしれないじゃないですか。
そういったことを無視して、ロリコンのほうだけを攻撃する姿勢からは、論理よりも感情、それもかなり差別的な感情を見出すことができます。
なんだかなあ、と思ってしまうんですよね。
ちなみに、以前そのようなことを考えながら、小説を1本書いたことがあります。
それを今度、カクヨムに投稿しようかと思っているのですが、ガイドラインに思いっきり抵触する描写があって、そのまま投稿することができないかもしれません。
私としては、「そういう描写」が濃密であることがこの作品の肝であると思っているので、なんとかそのまま公開したいと思っているのですが……。
どうしたものでしょう。
何と言うか……世知辛いですね。
昔できなかったことが今はできる、というのが正常な世の中の姿だと思うのです。
なのに、こと性表現に関しては、昔できたことが今はできない、というのがあまりにも多すぎる。
放っておいたら、水着も表現できない世界の出来上がり、でしょう。
それを回避するためには、一つ一つのイチャモンに対して、しっかり抗っていくしかないのだと思います。
微力ながら、私もそういうスタンスでありたいですね。
その結果として「表現の自由戦士」などと揶揄されるなら、それはむしろ歓迎すべきところかな、くらいに思っています。