今日は、正しいことをしようとするときに、ないがしろにしがちだけれども絶対気にすべき事柄について書いてみようと思います。
「正しいかどうかなんて考えたこともないよ」という人も、違うかたちで活用できることではあると思いますので、お暇があったら読んでいっていただければ幸いです。
正しいことは良く魅せよう
当記事の主張は、基本的にタイトルですべて言い切っています。
あなたが「これこそ正しいことなのだ」と信じて何らかの行動を起こす場合、ただガムシャラに結果に向かって突き進むのではなく、そのプロセスで他者を魅了することを考えるべきだ――ということです。
それは何故か?
そういうことを意識しないと、その行動を取ることの「旨味」をアピールすることができないからです。
この場合の旨味の方向性に、制限はありません。経済的な意味でも精神的な意味でも、何でも構わないと思います。
でもとにかく、その行動に対して魅力を感じさせなければいけません。
そうでないと、支持する者や、後に続く者が出てこないんですよね。
そうなると、あなたの行動は、単なるあなたの単発の動きで完結してしまい、一つの確立された潮流になることができないのです。
あなたがただ、自己の満足のためだけに行動するのであれば、その辺りはどうでもいいことかもしれません。
でも、正しいと信じる行動を取るときって、そうでない場合が多いですよね。
いささか大袈裟に言うなら、「世の中のかたちをちょっぴりでも変える」ことを最終目標にして行動していたりするものです。
そんなときは、あなたに賛同して行動を共にする者や、あなたがいなくなった後にも、あなたの意志を継ぐようにして同じ道を進む者が、絶対的に必要になります。
その場合に、あなたの歩いている道が「何の魅力のない道」であっては、後々まで活発であり続ける「生きた道」になりづらいのです。
演出が脚本を活かす
プロセスで他者を魅了するとは、すなわち己の行動に意図的に演出をかける、ということです。
見栄えのことを常に考える、ということですね。
映えるべき面がどうすればより映えるようになるか。どのように自己を見せ、語れば、それが広く深く伝わっていくか。
それを徹底的に追求するのです。
逆に冴えない面については、「隠蔽」まですると不自然になりますが、巧みに違う味つけをすることが重要になってくるでしょう。
例えば、つらく厳しい段取りについて、「でもこういう段階を経てこそ~」的なストーリーを作り上げ、受け手を鼓舞することに活用するとかです。
フィクションで考えるとわかりやすいかと思いますが、人は「何が描かれているか」に直接左右されることはあまりありません。
もちろんそれも大事ではあるのですが、それ以上に「どう描かれているか」次第で熱狂したりしなかったりが決まってくるのです。
この比重は大事なので、胸に刻んでおいてください。演出は脚本の生殺与奪を握っているのです。少なくとも私はそのように捉えています。
そしてこれはそのまま、現実の情報に触れるときにも適用できることです。現実においても、私達は結局のところ、その筋書きを、演出を通して見ているからです。
演出をかける≠嘘を吐く
こう書いてくると、次のように思う人が出てくるかもしれません。
「正しいと信じることをしているときに、その内容を加工することに躍起になるのは、嘘を吐いているみたいで嫌だ」
しかし、演出をかけることは、嘘を吐くこととは明確に異なります。
演出とは事実を捏造することでは決してなく、事実をどう見せていくか、ということですからね。
「魅せる」ことに力を注ぐことを躊躇してはいけません。
良いことが勝手に見栄えのするものになってくれると思っているのだとしたら、それは楽観的すぎますし、ある意味では傲慢であるとも言えるでしょう。
物事は、意図的に良く見せなければ、他者の目にどう映るかはまったくの不確定になってしまうのです。
「見る人は見てくれる」みたいな甘い幻想は捨てましょう。
自ら積極的に魅せに行くことをしなければ、あなたのせっかくの行動も、独り相撲で終わってしまいかねない――ここを肝に銘じるべきだと思います。
しかし、嘘を吐きたくない、という気持ちは立派だと思います。
それ無しでは、巷の偏った思想の活動家みたいに、捏造で己に都合の良い理屈を通そうとして自爆し、世の中の「大多数の普通の人達」との距離がどんどん離れていくことになってしまうでしょう。
最初からチームだと有利
演出をかけるからには、当然、その内容を考える者がいなければなりません。
自分一人で行動している場合、それは必然的に自分自身が担当することになります。
あなたの言動を、あなたが知恵を振り絞って光り輝かせるのです。
他のことにも言えますが、これはなかなか険しい道のりになるでしょう。
マルチな資質を持っている必要がありますし、自分を客観視するという、誰にとっても難しい行為を、他者のチェック抜きで成功させ続けなければいけないわけですから、考えるまでもなく大変なことです。
その点、最初から数人のチームで動き出す場合は有利ですね。
この場合、「演出家」の資質を持っている人間が、チーム内に1人でもいれば、それで全体を良く魅せることが可能だからです。
あなたが合計5人で動いているなら、5人の中の誰かがそういうことを多少なり得意としていればいいわけです。
この「仲間内の誰か1人でもできればそれでいい」というのは大きいことで、私の観測する限りでは、「たまたま各人がいろいろな長所を持っていたチーム」が高い確率で後に成功しています。
しかし、こればかりは出会いという運の問題なので、なるようにしかならないところでしょう。
最初から才覚を見抜いて一緒に行動しようと決められることは実際にはあまりなく、多くの場合、チームとして動き出して初めて、そういった個々の能力が明らかになってくるものだからです。
いずれにせよ、誰かは演出担当になる必要がある。
そして全員がプレイヤーになる必要がある。
その点は、単独でもチームでも変わらない話です。
おわりに
当記事の元ネタとなったのは、ずいぶん前に聞いた親の言葉です。
「正しいと思うことをしているなら、絶対に損しちゃいけない」
以前、そう言われたことがあるんですよね。
正しいことと引き換えに「人の世で上手く輝けない」なら、その正しさは決して成長することはないわけです。
先述したように、自己満足が目的ならそれでもいいのですが、そうでないのなら、正しい人は報われて、まとまった数のフォロワーを生み出さなければなりません。
正義は勝つ、という言葉がありますが、あれはより正確に言うなら、正義を名乗る以上は勝たなくては意味がない、という風になるのだと思います。
そうでなければ、果たされないのです。
お互い、正しいことをしてがっつり幸福になりましょう。
こういうことは、現時点の社会的立場の上下に関係なく、すべての人が持っていて然るべき想いであると、私は考える次第です。