今日は、空気を読む・読まないについて、常日頃からちょっと如何なものかと思っていることについて書いてみようと思います。
……って、タイトルでネタバレしていますね。
まあ、そういうことについての記事です。お付き合いいただければ幸いです。
日本の支配者・空気様
他の国はどうだかわかりませんが、少なくとも日本に関して言えば、今も昔も、国を真に支配しているのは他でもない、空気様です。
どんなにお金を持っていても、何かの仕組みの頂点に立ったとしても、人間ではその地位に取って代わることはできません。
空気様は常に私達の社会を牛耳って、気まぐれなのか、あるいは計画的なのか、それすらもわからないかたちで、私達を振り回しています。
目に見えないが、見える。手で触れないが、触れる。そんな不思議な存在。
空気様がいつどこで生まれるのかは、誰にも確認できません。
何かをきっかけに生まれることは間違いないのですが、私達には「気がついたらそこにいた」という風にしか認識できないのです。
いずれにせよ大事なのは、生まれよりもその育ちでしょう。空気様を育てるのは、被支配者である私達自身。その意味では自縄自縛であると言えますね。
いったんある程度まで育ち、支配者としての座についたが最後、空気様をどうにかすることはもう誰にもできません。
支配者として「成った」時点で、空気様は完全に私達の手から離れ、独立稼働によってその力を振るい始めるのです。
それは時には秩序をもたらしますが、時には大きな混沌に繋がることもあります。
秩序と混沌、そのどちらの象徴にもなり得る万能の存在。
それが空気様なのです――。
KY、おぼえていますか
一昔前に「KY」という流行語があったのを、覚えておられますでしょうか?
今もう死語、ですよね? 少なくとも私の観測範囲の中では、ニホンオオカミと同じくくりに入っていますが、どこかでは生きているのかな……。
わかりませんが、いちおう説明しておきますと、「空気が読めない」の略語です。
この言葉が流行った当時、それなりに恐ろしさを感じたのを覚えています。
言葉にすると、ちょっと大袈裟に響いてしまうのですが……「空気」こそが文句なしに最高のものであり、すべての民はその前にかしずくべきである、というような思考回路の「空気真理教」信者が、大量に可視化されたように感じたんですよ。
いや、決して、自分だけが冷静さを保っていて、社会の大多数がそれを見失っている、というような構図を描いていたわけではないんですけれども。
現代社会においては、多くの人が、「空気」の圧力というものに対して、それなりにきつい思いをしたことがあると思うのです。
空気のせいで、したくもない意思表示をしたり、無価値としか思えない行動をする羽目に陥ったりしたことなど、いくらでもあるでしょう。
それでもなお、KYのような言葉が、誰かのそれを指摘するものとして好んで使われるというのは、いったいどういう心の動きなのだろうと、そんなことを思ったわけです。
むしろ、自分が苦労しているからこそ、他の誰かにも同じようなことで苦労をかけさせたいのかな、みたいなことも推察したことがありますね。
いろんなコミュニティの諸種のローカルルールとかも、そんな話には事欠きませんから……。
空気に対する3種類の態度
さて、そんな強大な「空気」ですが、これに対する私達のスタンスは、大きく分けて3通りが考えられます。
まず第一に、いわゆる文字通り「空気を読むことができない」ため、その流れに反するような言動をとってしまうというスタンス。
発達障害等の問題もあるため、このことの意味を単純化するわけにはいかないのですが、いずれにせよこれは「ある種の能力の欠落」ではあるでしょう。
第二に、空気が読めて、それに従うというスタンス。
これがいわゆる「空気を読む」というアクションにあたるわけですね。「普通の人」が日常的にやっているのが、これになります。
そして第三に、空気を読むことはできたが、それに従わないというスタンス。
従わない理由については、いくつか考えられます。単に斜に構えて周囲の流れに歯向かっているだけの場合もあるでしょうし、「これは従うべきではない空気だ」という判断のもとでそういう反応をすることもあるでしょう。
何であれ、このスタンスが3つの中では最も、発動時にエネルギーを必要とするものではあると思います。
この3つのスタンス、どれが優れていてどれが劣っている、みたいなことを一概に言うことはできません。
一見すると第一のスタンスは単なる欠点にも思えますが、時と場合によっては「わからないこと」が武器になったり、幸福に繋がったりすることもありますので。
だからその辺りについては何も断定できないのですが、このスタンスの違いについて、私が一つ問題視していることがあります。
それは、第三のスタンスに対して貼られる、レッテルについて。
あくまで私の観測の範囲内の話ではあるのですが――どうもこの第三のスタンス、第一のスタンスとまったく同じ、すなわち空気が「読めない」仲間として一緒くたにされがちなように思うんですよ。
言霊は存在する
その理由ですが、まず「空気を読む」という言葉が、「読んだ上でそれに従う」という、2つの行動をまとめて説明するものになっている、というのが前提としてあります。
そして、このことが社会的にとても重要視されているため、多くの場合、話は「読んだ上でそれに従う」か「そうしない」かの二択でのみ語られることになる。
「そうしない」の内訳がないがしろにされているわけです。
結果として、空気を読むことができないことと、読んだ上でそれに従わないことが、「空気を読めない」という表現のもと、ひとくくりにされてしまうんですよね。
どーでもいいこと、とお思いかもしれませんが、ここにはそれなりに深い意味があると私は思うんです。
簡単に言うと、これは「空気には従うのが当たり前」という心理が、この社会において支配的であることの表れではないかと思うんですよね。
そして、この「区分けの不存在」が、お前も空気に従えという圧力を、余計に強いものにしてしまっている気がするのです。
すなわち、こういう脅しをかけているわけです。
「従わないのは、できないのと一緒。単なる能無しとみなすぞ」
こういうノリの中で、「私は空気を読めないんじゃない、読んだ上で従わないんだ!」ということを主張しても、半笑いが返ってくるだけでしょう。
呼称がない(活きていない)、ということの恐ろしさが、ここにあります。
私にはこの風潮は、「空気」が自分の権力を盤石なものにするために、私達の日常言語に仕込んだカラクリのように感じられるんですよね。
それに私達はまんまとハマってしまい、空気にあえて抵抗するという行為を即座に無知蒙昧と決めつける、損しかしない仕組みを作り上げてしまったのではないか、と。
なので私は、微力ではありますが、そういう風潮に抗って、あくまでも「読めない」と「読んだ上で従わない」を厳密に呼び分けていこうと思っている次第です。
このミクロな運動に、ぜひあなたも参加してくれると嬉しいですね。
おわりに
空気に逆らうのは、時として巨大なリスクを伴うものなので、それがおかしいと思っていても、その心のままに抵抗するのが難しい場合もあります。
なので、「空気がおかしいと思ったら、とにかく己の正義感に従って抗え」みたいなことを、簡単に主張することはできません。
ただ、そんなときに「逆らえない」のは仕方ないにしても、空気の側について、抗おうとする者を潰しにかかるのは、避けたいし、避けて欲しいなと思うわけです。
その行為の一環として、今回挙げたことを実践していきたいというのが、当記事の主旨となります。
空気を読めないのと、読んだ上で従わないのを一緒くたにするのは、まあ、煽りに他ならないわけですよ。
それも、結構低レベルな。
タチが悪いだけでなくカッコも悪いので、そういうことに加担したくはないなと、心底思うわけなのです。