いわゆるスケジュール帳のようなものに、日頃の予定を丹念に書き込んでいる人は多いのではないでしょうか。
今日はそんなスケジュール帳に、自由時間にやると決めたことを書き込むことの是非について、私の実体験を書いてみようと思います。
Googleカレンダー:これまで
私はスケジュール管理の手段として、2018年5月からGoogleカレンダーを使用しています。
私にとっては使いやすく、大変重宝している次第。まあすべての機能をフル活用しているわけではないのですが、それでも十分に日々の生活の役に立ってくれています。
そのGoogleカレンダーに、私はこれまで、自分の裁量では動かせない予定だけではなく、好きなようにやればいい予定も書き込んできました。
空いている時間であればいつやってもいいし、あるいはやらなくても誰にも怒られたりしない、いわゆる「自由時間の使い方」に関する予定です。
それこそ筋トレからアニメ視聴まで、属性に応じて色設定を変え、毎日「何時から何時まで」と入力していたのです。
予定通りこなせれば、それでよし。
そうでない場合には、実際にとった行動に合わせて、入力した項目を後から編集していました。
例えば、19~20時に行う予定だったものを、20~21時に行ったのであれば、そのように変更。あるいはやらずじまいだったのであれば、その項目を抹消する、といった具合です。
こうすることで、結果としてかたちに残った過去のスケジュールを、一種の日記として見返せるようにしていたのです。
自由時間の予定を立てることの問題点
そういうスタイルで1年以上やってきたわけですが、最近になって、段々と非効率を感じるようになってきました。
以前と比べて、自由時間にたくさんの物事をぎっちり詰め込むようになったことが原因で表面化したものです。
まず、自由時間の予定を細かく立てても、自身に対する強制力はそれほど働かないのだということがわかってきました。
私が自由時間の予定を立てる理由の一つに、そういった時間にも積み重ねたいものがたくさんあり、予定の視覚化がそれを後押しするのではないかという期待がありました。
しかし、いざせわしなくなってみると、そのような効果が見られず、結果として頻繁に予定を編集し変更or削除することが多くなったのです。
単純に、その編集作業が面倒臭い。
しかも、計画通りに生産的になれなかった自分の尻拭いなので、敗北感と挫折感の合いの子のようなみじめな気持ちまで生まれてきます。
そしてさらに、「やったことを正確に記録しておこう」と思うあまり、綺麗に記録しにくい時間の使い方ができなくなってしまいました。
具体的には、例えばまとめて1時間かけてやると決めたことを、10分×6回に分けて、隙間時間に少しずつこなす、というような工夫がしにくくなったのです。
行動を促すためのGoogleカレンダーだったわけですが、逆に「Googleカレンダーに残しにくいからこれはやめよう」というような、柔軟性の喪失が発生したわけですね。
結果、予定通りに物事をこなすモチベーションが湧かない場合、べつのかたちでそれをやるのではなく、そもそもまったくやらない――ということが増えてしまいました。
何しろ自由時間をどう使うかの話ですから、そういう選択をしても自分が損するだけで、誰にも何も言われません。
なのでいったんそのような傾向が見られ始めると、歯止めが利かなくなります。
最近はもう、もともと入力した予定がそのまま実行されることのほうが少なくなり、後で編集するのが当たり前になってしまっていました。
Googleカレンダー:現在
この状況を何とかしたい、と心底思いまして。
それで私がとった対策は、自由に動かせる予定について入力することを一切やめる、というものでした。
そして代わりに、ざっくりとした一日のノルマを箇条書きにし、Twitterでよく知られているハッシュタグ「今日の積み上げ」を付けてツイートするようにしたのです。
いつやってもいい物事については、細かい指定をあえてせず、「とにかく寝るまでのどこかでこなせればそれでいいのだ」という柔軟な状態を保つようにしたわけですね。
結果どうなったかと言いますと……予定をギチギチに詰め込んでいるため、なかなか100%達成できる日はないのですが、しかし一つの予定を細切れにして隙間時間に差し込むですとか、今まで思いつかなかった「ながら作業」ですとか、そういったことが捗るようになりました。
例えばアニメ視聴などは、従来はまとめて1時間半とか2時間といった時間をあらかじめ確保した上で行っており、正直「重かった」んですよね。
でもこれを少しずつ観たり、変な時間に思いつきで消化したりする選択肢を、より気楽に選べるようになりました。
引き換えに失ったのは、Googleカレンダーの日記化です。
自由時間にすることを入力しなくなったということは、単純な話として、その日どんな過ごし方をしたのかが、後から読んでもわからなくなるということなわけです。
ですが、これは仕方のないトレードオフということで、納得することにしました。
「記録されない高生産性」と「記録される低生産性」のどちらを選ぶかと問われたら、今の私としては前者を選ばないわけにはいかなかったのです。
まあ、それくらい今の私はいろいろ積み上げたがっているのだと解釈してください。
このスタイルに変えたことによって、また新しい問題が発生するかもしれませんが、そのときはそのときでまた考えます。
とりあえず今は、予定から解放されたことで手に入れた柔軟性と気楽さを使いこなして、毎日の積み上げを着実に行っていくつもりでいます。
自分に合ったスタイルを選ぼう
ここまで書いてきたのは、あくまで私という人間に起きた例に過ぎません。
どんなやり方がもっとも生産性や充実に繋がるかは、まさに人それぞれでしょう。
自由時間もしっかり自己管理でき、すべて予定通りに進められる人には、当記事の流れはまったくもってナンセンスなものとなります。
そういう人は、一度決めた予定を変更することがありませんから、面倒臭い編集作業がまったく生まれませんし、最初に入力したものがそのまま「日記」としても機能することになるわけなので、ちまちました工夫を必要としないのです。
それに対して、(私のように)自由時間の「自由」の部分に強い誘惑を感じるタイプは、時間単位のスケジュールを組むことはむしろ逆効果になり得る、というのが私の主張です。
そのようなパターンに陥ってしまうと、せっかくのスケジューリングが生産性に繋がらないばかりか、度重なる予定変更によって自己嫌悪まで出てくる。
あらゆる意味で日々がくすんでくるので、あえて自分を制約から解き放つのも対策のうちなのではないでしょうか。
代わりに、日々の目標設定をTwitter等で全世界に公開するのです。それをもって、緩やかな縛りとするわけですね。
自分を変えられれば万事解決するのですが、それはなかなか難しいもの。
なのでまずは――まあ小手先の工夫と言われると反論できませんが、こういうところから試行錯誤を始めてみるのがよいのではないかと、私は思う次第です。
おわりに
結局のところ、当記事は怠惰な人間のあたふたの記録に過ぎないのかもしれません。
先述したように、自分の決めた予定をしっかり遂行できる人なら、スケジュールを組むことで自然と美しい好循環が生まれるものなのです。
しかし現実には、(私のように)そういう風には生きられない人もたくさんいるわけで、そちらのタイプの人達へ一考を促す事例としては、少しは役に立てるのではないか、という期待を込めて書いてみました。
「外的な強制力が働かない」というのは恐ろしいことで、ある種の人間はそれでどんどん腐ってしまうんですよね。
何しろ自由時間ですから、どのように使おうがまったく問題はありません。誰にも迷惑をかけませんし、誰にも文句を言われません。
ですが、そこで何も積み上げない人間は、積み上げ続ける人間とのあいだに、確実に差をつけられることになる。
それが顕在化したときには、もう追いつけないような差になってしまっていたりするわけです。
今の私には、それがとても怖い。現代社会では、その辺がかなり人生の命運を分けることになり得るからです。
最近の私は、怠惰な貧乏人なりに「意識高い系」を指向しているので、自由時間の積み上げもそれなりに頑張りたいと思っているんですよね。
そのためのライフハックについては、今後も多角的な検証を積極的に行っていくつもりでおります。