今日は、生きていればいつか(あるいはしょっちゅう)出くわすことになる、様々な要素が複雑に絡み合ったデカい問題に対し、どのように立ち向かっていけばいいのか、について書いてみようと思います。
まあ、偉そうなことを書けるほど私が「問題解決の達人」かというと、そんなことはまったくないのですが、あなたの一助になることはできるのではないかと。
参考程度に読んでいただければ幸いです。
結論:簡単な部分から対処すべき
いきなり結論から書いてしまいましょう。
複雑に絡み合った、大きな問題に対するもっとも効果的な立ち向かい方は、「その問題のいちばん簡単な部分からまずは片づけてしまうこと」です。
恐らくそういう作業は、一見すると何も本筋の解決に繋がっていかない、無駄なものに映ることでしょう。
それでも一向に構いません。末端の、つまらない、そんなところをいくらイジっても焼け石に水だろうというところから、一つ一つ、淡々と処理していくのです。
少なくない数の人が、それとはまったく正反対の方法論を採ろうとします。
大きな問題にも小さな問題にも、その中心たる「核」がある。その核を何とかしない限り、何をやっても根本的な解決にはならない。だからそこをいかに攻めるかを考え、実行すべきだ――。
そんな風に躍起になるんですよね。
しかし、勝手にこんなことを言うのは申し訳ない気もしますが、複雑で大規模な問題は大抵、そういうアプローチをしてもビクともせずに、挑戦者を弾き返すことでしょう。
そもそもこちらの剣先が核に届く前に、周辺の「防御システム」によって阻まれ、振り出しに戻ってしまう。
その種の問題は、誰が構築したわけでもないのに、まるで自律した生き物のように、そういう構造を備えていることが、極めて多いのです。
そこで有効となるのが、上に挙げた方法論、すなわち問題の周辺の些末なところから攻めていくというやり方です。
最初のうちは、解決はおろか、手応えと呼べるものが一切感じられないかもしれません。
そのことで不安になるか、あるいは苛立ちを覚えるかもしれません。
しかしそこをぐっと堪えて、同様の地道な作業を繰り返していくのです。
――すると多くの場合、ふと気がつくといつの間にか、手のつけようのない状態にあった問題が、何とか戦いが成立するレベルにまで簡素化、縮小化、弱体化しているものなんですよね。
複雑さは無駄な規模から生まれる
どうしてそういうことになるのか?
それは、複雑に絡んだ問題というものの多くが、「無駄な規模」によってそのようなかたちに成長してしまったものだからです。
問題の核が、自分の血肉として引き寄せるものは、すべてが核に直接関係しているものばかりではありません。
本来ならその問題とは無縁であったはずの要素が、かなり含まれています。
しかしそれらは、いったん引き寄せられ、問題の一部となってしまうと、核と協力体制を取るようになり、先述したような防御システムとなって問題の成長(悪化)を補助するようになります。
それでいながら、核そのものではないので、問題解決に尽力しようとする者達の目には、どうでもいい枝葉末節に見えるという性質もある。
そこで私達は、その枝葉末節から順番に薙ぎ払っていくのです。
その性質のため、その作業は体感的には、どうでもいい箇所をドブさらいしているように感じられるかもしれません。
しかし上で説明したように、複雑な問題とは、核が無関係なものをも手当り次第に引き寄せて固まった集合体。
その「無関係なもの」を潰していくというのは、複雑な問題を複雑ではない本来の姿に戻す上で、非常に有効な手段となるわけです。
大事なのは、「複雑さ」は「問題の核」とはべつの概念なのだというのを忘れないことですね。
多くの場合において、複雑さは問題の本質について巧妙に幻惑する迷彩、あるいは煙幕のような働きをしている。
そこには「中心」というものがありません。複雑さは、ごちゃごちゃした無数の要素の一つ一つが満遍なくその生命の一部となっているのです。
なので、地道に末端のわかりやすいところから処理していくことで、確実に弱まっていくわけです。
もちろん例外はある
当然ながら、万事においてこの方法論で解決を導き出せるわけではありません。
何事にも例外というものは存在します。
わかりやすいところとしては、問題の核が複数あり、お互いの尻尾を噛み合った状態になっていて、外部からの干渉を極めて受け付けにくい場合が挙げられるでしょう。
そのような場合においては、複雑さを何とか薙ぎ払った後にも、問題の核そのもののこじれと、ある意味での自己完結が待ち受けています。
これはまた全然違う問題なので、枝葉末節を片づけるだけではどうにもならない面が強いと言えるでしょう。
しかし、こういうことはそんなに多くあるわけではありません。
問題の核というものは、大抵の場合、それ自体はつまらないことだったりするものなのです。
なので、まあ見極めも大事ではありますが、まずは最外周のつまらない雑事を潰していくことから始めるのが基本である、ということには変わりはないでしょう。
ここはあまり深く考えるところではないと、私は思います。
仕事もプライベートも同じ
ここまで書いてきたことは、およそ「複雑に絡んだ問題」と呼べるものに普遍的なことであろうと考えます。
なので、仕事術としても使えますし、プライベートで発生した何らかのゴタゴタに取り組む際にも、しっかり使える方法論であるはずです。
ですが、こと仕事となると、次のような意見が出てくるかもしれません。
「枝葉末節から順番に? そんな悠長なことはやっていられないよ」
「結果的に解決できるかどうかよりも、うちはしっかり挑んでいる態度を見せるほうが重要なんだよ。枝葉末節なんかに向き合っていたら評価されないよ」
まず前者に関しては、はっきり「それは勘違いです」というのが私の意見です。
複雑さに対峙する際のスタンスとしては、ここまで紹介してきた方法論が、一見遠回りのようで結局は最短の道であると思うからです。
これが「悠長なこと」に感じられるのは、初期のミクロな作業の連続が、とても地味に映るからでしょう。スライムばかり倒してレベル99まで上げようとするのに近い感覚を抱くのかもしれません。
でも、複雑さの解体→剥き出しの核にトドメ、という流れは、難攻不落状態の核にいきなり挑むことに比べると、遥かに戦略的です。
もちろん、たまには「いきなり核へ」が上手く行ってしまうこともあり、その場合は確かに手短に終わるのでしょうが、平均的には複雑さを取り除くのを先にしたほうが時短に繋がるのではないかと、私は考えますね。
後者については、私からコメントできることはほとんどありません。
世の中のお仕事にはいろいろな面があり、中には無駄とわかっていることに対してただそれっぽいポーズを取ることで給料が発生する、という状況もあるのだろうと思います。
「イケてることをやっているフリ」が「地味なことを実際にやっている」より評価されるわけですね。
そういう状況に身を置いている皆さんにおかれましては、まあ、上手くやってくださいと言うしかないのが、正直なところです。
生きるのって、時として泣けるほど滑稽だったりしますからね。
おわりに
当記事に書いた考え方を、初めて明確に意識したのは、村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』を読んだときでした。
主人公の叔父(だったかな)が、まさにこのような問題解決法を語る場面があったのです。
読んだのはもうずいぶん前になりますが、読んでいて「これだ」と思いましたし、私のちゃちな人生経験の中でも、実践してみて確かに効果的だと感じられる場面が多々ありました。
世の中、変に複雑でイライラするし、どう対処していいかいつも迷う――とお悩みの方は、この方法論を積極的に取り入れてみてはいかがでしょうか。
ちなみに『ねじまき鳥クロニクル』は傑作なので、人生のどこかで一度は読んでおくことをオススメします。