今日は、自助努力と呼ばれるものの本質について書いてみようと思います。
私の観測の範囲では、「自己責任」と並んで、他人を突き放す言葉として重宝がられている印象なのですが、そこには本来もうちょっと深いものがあると思うんですよね。
そこら辺の考察に、しばしお付き合いいただければと思います。
辞書的に正しい誤用
まずは日本語としての正確な意味を確認するところから始めるべきでしょう。
どこぞの辞書には、次のような説明が載っているそうです。
「他に依存せず、自分の力で困難を乗り越える努力のこと」
まあ、これは誰でもわかるよ、というところですね。
私としても、日本語の定義に逆らってまで何かを主張するつもりはないので、字句レベルでは上記の説明を尊重する次第です。
しかしこれはとても簡素な説明であるため、「で、現実の人生には具体的にどう適用すべきなのか」というところで、解釈というものが必要になってきます。
その解釈について、私は常日頃から世間の一部に対して、ある違和感を抱いているんですよね。
「他者に依存せず」「自分の力で」という箇所を、極めて狭いかたちで解釈した結果、次のような意味で使っている人が結構いるように見受けられるのです。
「最初から最後まで、自分の力“だけ”を使って困難を乗り越えること」
一人ですべてをやるのは無理or非効率
極めて特殊な分野においては、その解釈でやっていくことが正解で、誰もがそうあるべきなのかもしれません。
世の中には私が把握できていない領域がたくさんあるので、その辺りまで知ったかぶるつもりはまったくありません。
しかし大抵の分野においては、一人で出来ることって限られていますよね。
そのわかりやすいパターンはもちろん、集団で一つのものを成し遂げるたぐいの物事です。
そこでは個人プレイとチームプレイが完全には分離できないことが多く、具体的に誰のせいとも言えない失敗や、誰のおかげとも言えない成功が見られたりします。
チームの面々はお互いを補い合うのが基本。
もちろん前提としては「自分の役割」というものが区分けされているのですが、段取りが進むにつれて、それも多かれ少なかれ曖昧になっていきます。
自分が自分の担当を、100%自分の力だけで成し遂げたのかどうか判断するのは難しいですし、そもそも杓子定規にそうする必要性がありません。
では、個人戦を勝ち抜いていくスポーツのような分野ではどうかと言いますと、こちらも「自分のことを100%自分だけでやっている」とは言えません。
単純な例としては、ほぼ必ず指導者、メンターと呼ばれる存在がつくものですよね。
この時点ですでに、他者の知見を借りて成功を掴み取っているのは確定。
そして成功している人ほど、周囲の多くの人間の有形無形のサポートも、いろいろと受けているものです。
そう、自分のことを自分の力「だけ」でやるのは、無理ないし非効率なのです。
もし自助努力が、自分に降り掛かった困難を自分の力「だけ」で乗り越えることを指すのであれば、人は大抵の場合において、自助努力などしてはいけないということになります。
でも、それはちょっとおかしいですよね。
自助努力とは?
とするなら、果たして自助努力とはどういうものを指すのでしょうか?
……って、ご承知の通り、記事タイトルでとっくにネタバレしているのですが、あえてドドンと書きますね。
自助努力とは、何らかの問題を乗り越えるにあたって「他人の力を借りられるように頑張る」ことを指すのだと、私は考えています。
天は自ら助くる者を助く、という言葉があります。
元は英語の諺らしいのですが、この「天」は、そのまま「人」に当てはめて捉えることができるものではないでしょうか。
人間社会の機能的な意味でも、感情的な意味でも、自分のやるべきことをやっていない人間に対して、他者からの救いの手が差し伸べられることは、あまりありません。
もちろん、事情があって自分の役割を果たせないという場合はべつですが、そうでない場合は、まあ見向きもされず捨て置かれることになるでしょう。
逆に言うと、そこできちんと自分のやれる範囲のことをやっている人間が助けを求めれば、かなりの確率で誰かの力を借りることができます。
こういうのを「世の中捨てたもんじゃない」と言うのか……ちょっとわかりませんが、そういう人間関係はだいたいの環境において成立し得るものです。
もしあなたが今、これがまったく成立しない環境に身を置いているのであれば、それはちょっとマズイので、何かしらの手段でどこかへ移ることを考えるべきではないかと思いますね。
こういうのが、自助努力の本当の意味ではないでしょうか。
上で説明した性質を強調してまとめるなら、あるいは次のような言い方も可能かもしれません。
「自助努力とは、誰かに頼るための下準備である」
ここまで言ってしまうと、辞書の説明にあった「他に依存せず」の箇所と矛盾するのではないか、という意見もあるかと思いますが、私の解釈では、依存すべきでないというのは、ここで言う「下準備」段階の話だと思うんですよね。
自助努力は最初から「後で助けてもらうこと」を考慮していても全然問題なく成り立つもので、大事なのは自分の意志と力でその土台を作ることなのではなかろうかと。
成功へのステップ
今回この記事を書こうと思ったきっかけは、先日ある記事が予想外に読まれたことにあります。
良くも悪くも普段通りの記事で、私としては何ら特別な期待はしていなかったのですが、その記事がたまたまTwitterにて、とある膨大なフォロワー数を誇るフォロワーさんの目に留まり、リツイートしていただいたのです。
それにより一気に広まり、まとまった数のPVに繋がってくれました。
そのとき思ったのは、次のようなことでした。
「こういうのが、一人の『持たざる者』が成功していく過程なんだろうな」
いや、べつにこのときの出来事そのものを大袈裟に捉えていたわけではないのですが、物事の段取りとして、これぞ成功パターンの王道だろうと思ったのです。
まず、ちっぽけな自分に生み出せる範囲のものを生み出し、できる範囲でそれを発信する。それをすでに成功している人に認めてもらって、本格的に世に出る。
そういうのの、ものすごく小さな事例にあたるなコレは、と。
ここにはモロに「他人の力を借りる」ことが介在しています。
要するに、力ある者に引っ張り上げてもらって成功しようという話なのですから、そこの印象だけ強く受け取る人に言わせれば、おんぶに抱っこ、というやつになるのでしょう。
しかし私の考えでは、これもやはり立派な自助努力の結果なんですよね。
まだちっぽけな存在であるうちから、自分で考え、自分で生み出し、自分で発信した。だからこそ力ある者に拾われ、世の中に出ることができた――。
その初期段階の頑張り、踏ん張りこそ、自助努力の本質だろうと思うわけなのです。
もちろん、罠もあります。
例えば、有力者に気に入られようとするやり方があまりに露骨である場合、いわゆる「媚びる」行為とみなされて、流れはだいぶ変わってしまうでしょう。
その辺の基準は極めて人間的で曖昧で、あまり私の好むところではないのですが、現実問題として上手く回避する必要があります。
そういうことさえないのであれば、どんどん拾われていけばいい。
それはインチキでも贔屓でもなく、やるべきことをやった人間が、当然に得られるサポートに他ならないのです。
おわりに
結局、「何事においても腰が軽く、プライドの無い人」が強いのだろうなと思います。
ササッと自分のやるべきことをやり、何か困ったら躊躇なくヘルプを発信する。
その過程にグダグダしたところのない人が、余人を置いてどんどん先に進んでいくのでしょう。
そして、いつか誰かを助けられる立場になったら、今度は助けまくる。
そうやって与えたり与えられたりすることで、社会は成り立っているわけです。
自分のことは自分でやる――これは大事なことですが、解釈を厳密にしすぎて、生きることを窮屈にすべきではありません。
コミュ障の自分が言うことではないとは思うのですが、自分と他者の間柄というのは、何と言いますか「ふんわりドライな互助」を目指すべきなのだと思います。
どんどんギブして、どんどんテイクしてもらう。遠慮は非生産的なのです。
その点、私はまだまだ、腰の軽さもプライドの捨て方も足りていません。
もっといろいろなことを発信し、もっと負け顔を見せられるようになって、力のある人に助けてもらって前進し、いつか力のある人になって誰かを助けたいところです。
そのために頑張らないといけませんね。ここがまさに自助努力なのです。