今日は、いわゆる広義の「学び」について、どのような過程を経るのがよいのか、ということについて書いてみようと思います。
まあ、私自身まだまだあらゆる意味で修行中の身であり、「学びとは」なんてことを偉そうに語れる立場にはないのですが、とりあえず市井の一員としての私見を少々。
何かの参考になるところがあったら嬉しいです。
学びの基本は型作り
直接的に誰かに習うにせよ、独学するにせよ、何かを学ぶときにはまず、確立された型を身につけることから始まります。
ここでいう型というのは、メソッドとか、フォームとか呼ばれているものを、まとめてくくったものであるとお考えください。
私達はまず、既存のそういったものをトレースすることから始めます。
独自性はもちろん大事ですが、それは後からじわじわと出来上がっていくもの。最初から目指すものではありません。
その辺りの順序を間違うと、ただの「型なし」になってしまい、相当に無駄な時間を費やしてしまうことになる。
まずは馬鹿正直に先人に倣うことが、一番の近道であることは疑う余地がありません。
そのときに大切になってくるのが、いわゆる見本、先例の存在です。
見本とは要するに、先人の足跡そのもの。「結果」にも「過程」にも見本はあり、基本的にはそれらは「真似をする対象」として機能することになります。
見本の通りにやってみる。あるいは見本の通りに出来上がることを目指してやってみる。
まあ、見本のない分野というのは、よっぽど自分自身がまるっきりの先駆者でもない限り、まずないと思ったほうがいいでしょう。
そんなわけですから、いわゆる見本には「良いもの」が選ばれることが多いです。
当たり前ですよね。真似をする対象なのですから、良くできたものでなければその役割を果たすことができません。
ただ、世の中にはしばしば、それとは逆のパターンもあります。
それが、俗に言う「悪い見本」。このようにやってはいけませんよ、という方向からアプローチすることで学びを得ていくのに使われる、負の対象です。
良い見本と悪い見本
世の中、学びの方法論は1つではありません。
様々な分野の、様々な達人が、様々な「修行法」を提唱しているのが現実で、その実態はなかなかに複雑です。
同じ分野でも、教える者の数だけ(というのは言葉の綾ですが)方法論がある。
必然的に、見本に対する考え方も、それぞれの達人によってかなり幅が見られることになります。
以前見た料理人の話では、次のようなことが語られていました。
「新しく入ってきた子には、とにかく良いものにだけ触れさせる。そうすることで自然と良し悪しが理解できるようになり、良いものを自分でも再現できるようになる」
一方、映像系クリエイターの意見として、次のようなインタビューを読んだことがあります。
「勉強するときは、悪いものにたくさん触れるといい。良いものから良さを抽出して吸収するよりも、悪いものから『何がそれを悪いものたらしめているのか』を抽出・吸収するほうが易しく、より学びになるからだ」
さあ、果たしてどちらが正しいのでしょうか?
この場合、「両方触れるに越したことはない」とはなりません。
後者はともかく、前者の意見は「悪い見本を遠ざける」ことを前提としているため、両方触れることとは論理的に馴染まないからです。
私の意見:才能と分野次第
達人の皆様のあいだに割り込むのは気が引けますし、玉虫色の内容なのも躊躇するところなのですが、私の意見としては「それは才能と分野によりますし、バランスも大事でしょう」となります。
先述した達人の意見が、どれくらい頑固にそう考えているものなのかはわかりませんが、教える相手によって柔軟に変えていくのは必要だろうなと。
2つの意見、それぞれについて個別に考えていきましょう。
良いものにだけ触れさせる方法は?
これは正直、センスがないと身につけるのに時間がかかると思います。
というのも、「良さ」というのは宿命的に曖昧なもので、対象を論理的に分解すればわかるかというと必ずしもそうではなく、通常の意味での「知性と理性」ではそれ自体を直接扱えないことも多いからです。
ただただ「自分との距離」だけを思い知らされ、しかしそれをどう埋めていけばいいのかは掴めず、緩やかに意気消沈していく可能性もあるのではないでしょうか。
いわゆる天才には向いているのかもしれません。
イメージ的にも、天才にはそこらに転がっているどうしようもないものなどインプットさせたくない、というところがありますよね。
彼らは物事からエッセンスを抜き出して、それを自分のものとする技術に長けているので、良いものにだけ触れさせることが、純度の高い学びになることもあるでしょう。
そういう意味では、この方法論は、一種の「振るい」としての機能もあるのかなと思います。このやり方で伸びない奴はやめておけ、みたいな。
悪いもの中心に触れさせる方法は?
悪い見本から「それを悪いものにしている要素」を見出すのが比較的易しいという考えは、個人的に納得できるものがあります。
よく「失敗に偶然なし」などと言われますが、悪い見本はとても確固たる存在なんですよね。
良さには様々な方向性がありがちなのに対して、悪さにはある程度共通する部分があり、分析的にアプローチすることが可能なのです。
その意味で、いわゆる努力型、理論派には向いているのではないでしょうか。
この方法論で「失敗を避ける術」を徹底的に叩き込むことで、一定のレベルに堅実に到達することができる可能性は、それなりにあると思います。
ただし、個人的には、良いものにもしっかり触れておくべき、とは思いますね。
それは「良いものと悪いものの落差をしっかり感じ続けることで、失敗の意味を正しく認識する」という目的もありますが、何より「その分野への情熱を保つには、良いものとの多くの接触は必要だろう」と思うからです。
出来の悪いものにばかりアクセスする日々って、正直しんどいじゃないですか。
いくら学びのためとはいえ、そういうものにたくさん触れているうちに、心の熱量に悪影響が出てくるのではないかという危惧があるのです。
きちんと良いものにもたくさん触れて、頻繁に感動しておくのは、栄養補給と同じ意味で必要なのではないかと、私は考える次第です。
おわりに
私自身の日々としては、まあ「良い見本8、悪い見本2」くらいの割合で触れている感じですね。
これは意図的にそうしているわけではなくて、今の生活の仕方だと結果的にそうなるという話です。自分から積極的に悪い見本には触れに行っていません。
で、良い見本は右脳で、悪い見本は左脳で処理しているイメージです。つまり、良さは感覚的に捉え、悪さは理詰めで分析していくスタンスですね。
ただ私の場合、そもそも生き方として、見本に触れる量が足りない気がしています。
例えば小説の執筆や、当ブログの運営がそう。書くほうに重点を置きすぎており、見本となる他の小説、他のブログを人よりあまり浴びていないところがある。
この辺が原因で伸び悩んでいるのかな、自分の一番の改善点なのかな、と思いながら暮らしている次第。
これを機会に、もうちょっと「見本に多くアクセスする生活」にシフトしていこうかなあ。
特にブログ。現在は「勉強として他のブログを見る」ことをまったくしていないので、今後はそういう視点を積極的に持っていくべきなのかもしれません。
そのための時間を設けていくことを、ちょっと検討してみたいと思います。