天国的底辺

二次元、創作、裸足、資格試験、その他諸々についての思索で構成されたブログ

「裏表がない」は正確には「表が1種類しかない」である

 今日は、いわゆる裏表のない人について、思うところを書いてみたいと思います。

 もちろん、一口に裏表のない人と言っても、その性質はいろいろあるのでしょうが、ここでは一つの実例を挙げて、いちばん意外性があるであろう箇所を突くことを主題とさせていただきました。

「人間は複雑である」という大前提を踏まえた上で、あえて単純化した話であることは、ご理解いただければと思います。

 

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裏表のない人

 いわゆる裏表のない人というのは、年齢や性別、そして社会的ステータスの高低などに依らず、一定の割合で存在します。

 社会的ステータスに依らない、というのが、私としては結構強めにアピールしたいポイントですね。

 人が社会でうまくやっていくには、相手によって巧みに顔を使い分け、あるときにはゴマをすり、あるときには居丈高に――みたいに生きなければならないと思っている人、それなりにいそうじゃないですか。

 でも、そういうわけでもないんですよね。

 世の中には、裏表がないと評されながら、社会で成功を収める人もちゃんといるのです。

 

 裏表のない人は、基本的に好かれやすい存在です。

 まあ必ずしもそうだというわけではないのですが(これについては後述)、少なくともその逆の「裏表ありまくり」な人よりは、遥かにその傾向が強いでしょう。

 

 実のところ、相手によって態度を変えるのは決して悪いことではありません。

 そもそも人間関係とは相対的なものなので、Aさん→Bさん、Aさん→Cさん、この2つのコミュニケーションの方式が内容的に異なっているのは、ごく自然なことです。

 そして、ほとんどの人は、その自然な成り行きに身を委ねて生きている。

 しかしそれでも、他者の中に見出すことのできる裏表については、人はかなりシビアなんですよね。

 自分を棚に上げて、「本来そうあるべきではない」という態度を取るのが、少なくとも私の観測範囲における、スタンダードな人間の在り方となっています。

 

わかりやすさと安心感

 裏表のない人は、なぜ好かれやすいのか。

 この問への回答としては、幾つかの言い方が考えられると思うのですが、私なりに最適と思われるものを選ぶなら、次のようになります。

「わかりやすくて安心感があり、その人と接するに際して、あれこれ考える必要があまりないから」

 

 要するに、裏表のない人と接するのは、人生のワンシーンとしてとてもイージーなわけです。

 その人に何ができるのかとか、こちらのことをどういう風に捉えているのかといったこと以前の問題として、そのイージーさに一息つける喜び。

 それが好感の本質であるというのが、私の考えです。

 

 これは悪く捉えるなら、その人に対する「見くびり」でもありますよね。

 この人物は手の内を全部見せているから、予想外のことをしてこちらの足元を掬うようなことはしてこない(できない)だろう、という安堵には、どう言い繕ってもそういう性質があると思います。

「こいつは単純だから楽だよな」という言い方をすると、それがよくわかるのではないでしょうか。

 

 それゆえに、人は裏表がないと思っていた相手の振る舞いに何か「裏」を見出したとき、物凄く意表を突かれます。

 その結果、その人に対してひどく落胆したり、場合によっては腹を立てたりする。

 これはまさに「飼い犬に手を噛まれた」ような感覚なのでしょう。

 こちらの思う通りにしか動くことがないと思っていた生き物が、その枠を越えてきたことについて、一種の裏切りを感じ取るわけです。

 

 勝手に人の在り方を規定して、勝手に気を緩めておいて、そうでなかったと知ったときに勝手に落胆したり腹を立てたりするのですから、大変な逆恨みですが、まあこれも自然な感情のうちに入るのでしょうね。

 人は往々にして、他者を自分に都合の良いかたちで分類してしまうものなのです。

 

裏表がない状態の仕組み

 でも私としては、ここでそういう落胆や怒りを示す人達に対して、ちょっと角度の違う指摘をしたいのです。

 彼らはそもそも、裏表のない人に関する前提を勘違いしているように思うんですよね。

 その勘違いがあるから、裏表がないと思っていた人に「裏」があった、ということが、驚く要素に感じられてしまうのではないでしょうか。

 

 ――ここでようやく、本記事のタイトルの話になります。

 私は、裏表がないというのは、正確に言うと「表が1種類しかない」「その1種類であらゆる人間関係をこなしている」ということなのではないかと考えているのです。

 だから「裏がある」こと自体は当然。

 裏表がないというのは、「何一つ振る舞いを作っていない」という意味ではないんですよね。

 ここがわかっていない人が、先述したようなケースにおいて、不必要なショックを受けることになるわけです。

 

 例として、僭越ながら私自身を挙げてみたいと思います。

 

 私は世間的には、いわゆる裏表のない人間のほうに寄っているタイプです。

 人に好かれる資質に欠けているので、誰かと親しくなるということはまずないのですが、単純に「いわゆる裏表があるかないか」で言ったら、確実に「ない」生き方をしている。

 良し悪しは置いておくとして、文字通り誰に対してもだいたい同じように接します。格上とか格下とか、歳上とか歳下とか、敵とか味方とか、そういうことで口調や仕草、論理を使い分けるということをしない。

 あるときそう決めて以来、ずっとそれを続けているのです。

 

 しかしこれは、「裏がない」ことを意味するわけではないんですよね。

 それどころかむしろ、人一倍くっきり、はっきりとした「裏」が自分にはあるとすら、実のところ思っていたりする。

 私が他者に対して見せている「顔」は、私の内面をそのまま外に出したものではまったくありません。

 私がやっているのは、「すべての他者に対応する、汎用的な仮面を一つ用意し、対外的にはそれをずっと被り続ける」ということなわけです。

 

 しかもその理由は、「仮面を複数使い分けるのがいろいろな意味で面倒臭いから」という、消極的なもの。

 仮面の使い分けは、ただでさえ億劫な人間関係を、余計に疲れるものにしてしまう気がするんですよね。

 それでこのようなスタイルを取るようになったに過ぎないのです。

 

 そんな私からすると、「裏表があるかないか」の差が場合によって好感度の差に繋がっているのは、ちょっと笑ってしまうことだったりするわけです。

 はっきり言って、仮面の数は、その人物の信頼性や人間性を、少なくとも世間が思っているような意味では表してはいません。

 ただ、わかりやすいかそうでないかの違いしかない。

 私個人で言えば、誰に対しても丁寧なのはリソース不足の表れであるし、リソースが足りなくなるのは、本質的に他人というものが好きではないからという面がかなり強い。

 恥ずかしながら、そんなものでしかないんですよ。

 

良い手抜きと悪い手抜き

 人間関係というのはそもそも、ある程度の緊張感があって当然のものだと思うんですよね。

 それは敵対関係とかライバル関係にある間柄に限らず、どんな親しい間柄であろうが、変わることのない真理ではないかと。

「親しき仲にも礼儀あり」という言葉を持ち出すまでもなく、油断して日常的に「やらかし」を続けてしまい、親しいはずだった相手に愛想を尽かされる、なんてことも、よくある話ですからね。

 

 そんな中、裏表のない人間の「接していてもMPの減らない楽な感じ」が凄く好都合なのは、よくわかります。

 この世知辛い世の中にあって、たった今、目に映っているそのままをその人の在り方だと思っておけばいいというわかりやすさは、さぞ貴重に思えることでしょう。

 

 でも、それは悪い手抜きだと私は思うのです。

 悪いというのは、邪悪という意味ではなく、筋が悪いという意味ですね。本当はあなたが思うような仕組みになってはいないんだぞ、ということです。

 裏表がないというのは、繰り返すようですが、表の数を1種類に絞るという生存戦略。

 その奥には、あなたの知らない「裏」がちゃんとあるし、そこまでもが表と同じようにあなたの想定内に収まっている保証は、どこにもないのです。

 

 くれぐれも、そういう「裏」を垣間見る機会があっても、そのことで妙な反応はしないようにしましょう。

 特に「裏切られた!」などと悲しんだり激昂したりするのは、滑稽であり愚の骨頂。

 太陽系第三惑星の上でホモ・サピエンスとして生きている以上、そのような安直な同族の捉え方はしないでおくのが、まっとうな姿勢であると私は言いたいです。

 

 もちろん、それはそれとして、肩肘を張らなくていい相手を見つけて気を楽にするのは、悪いことではありません。

 その人に(こちらの知らない)いろいろな側面があり得ることを認めつつ、それでも接しやすいと感じるのなら、それは純粋に相性が良いというやつでしょう。

 そういう関係は大切にしていくべきだと思います。

 

おわりに

 結局のところ、人は皆、仮面を被って生きています。

 特殊なケースを除いて、それが私達という生き物の当たり前の仕様です。

 違いがあるとしたら、その仮面の数と、自覚の強弱だけではないでしょうか。

 

 しかしそれは単なる生活スタイルの問題でしかなく、人として好感を持てるかどうかを決める指標としてはかなり見当外れなものであると、私は思います。

 ましてや、そこで「良い人」かどうかを見極めようとするのは、後々大変な齟齬を生み出すことになりかねません。

 そこは注意するべきでしょう。

 

 言うまでもないことですが、当記事は裏表のない人を腐すことを主旨としたものではありません。

 そうではなく、そういう人に幻想を持っている人が、そのせいである日突然、腐す側に回り得ることのナンセンスさについて書いたものとなっております。

 お互い、他人を都合よく解釈し、それが間違っているとわかった途端、裏切られたかのように感じてしまう、などという真似はしないよう、気をつけて日々を過ごしたいですね。