天国的底辺

二次元、創作、裸足、資格試験、その他諸々についての思索で構成されたブログ

「間」が正しく作られれば大抵のアニメは最後まで観られる……が

 今日は、私がアニメを視聴する際にとても重要視している「間」について書いてみようと思います。

 ここで「間」という言葉を使って表現しようとしているものは、一般的な意味のそれとは少し押さえている範囲が違うかもしれませんが、私なりの解釈・こだわりとして、おおらかに受け止めていただけると助かります。

 

 

 

アニメを切る判断基準

 先日、いわゆる「観ているアニメを切る」行為について、次のような記事を書きました。

 詳しくは読んでいただきたいのですが、主に切るタイミングとその実状について語っています。

 

www.tengoku-teihen.com

 この記事ではほとんど触れなかったのですが、私があるアニメについて「もう観なくてもいいかな」と思うとき、そこには必ず、共通する欠陥(と私が認識するもの)があります。

 それが今回の記事タイトルで言っていること――「正しい『間』が作られていない」ということです。

 もちろん0話切りは視聴前の話なので例外。ここで言っているのは、いったん観始めたものを途中で止めるときの話ですね。

 ストーリーであるとかキャラクターであるとか、そういった要素も当然ながら判断基準にはなっているのですが、これは駄目だなと思った作品は、それ以前に「間」を生み出すことに失敗しているのです。

 

 適切な「間」を作れないとどうなるか。

 これはいささか極端な物言いになりますが、基本的に「たとえどんなキャラクターを揃えて、どんなストーリーを展開しようが」観ていて退屈、ないし苦痛を感じることになります。

 その意味では、ここで言う「間」は映像作品としてのアニメの生命のようなものと言えるでしょうか。

 そこが上手くいっていないアニメは、いわば亡骸ですね。どんなに骨格や筋力に優れていようと、すでに事切れていればそれは生き物ではなく「物体」に過ぎない――そんなニュアンスだと思っていただければいいかもしれません。

 

「間」を構成するもの

 具体的に、私の言う「間」とは何なのか。

 いちばんわかりやすいのは、作品のテンポでしょう。

 物語には、ある物事をある描き方でかたちにすると決めた時点で「そのために必要な尺」がどこからともなく規定されるものです。

 その尺と実際の尺が合っていれば良いのですが、そうでない場合、テンポは速すぎるか遅すぎるか、どちらかの状態に陥ってしまう。

 

 個人的には、TVアニメはおおむね「理想よりテンポが遅い」と感じていますね。

 もちろん細かい印象は作品ごとに異なるのですが、速すぎてついていけないとか、情報を軽くなぞるだけになって深みがないといったことは、あまり感じたことがありません。

 その逆は割とあって、そういうときは1.2倍速での視聴を、その作品を消化する際のデフォルトに設定することになります。

 現在視聴中のアニメについても、幾つかはそのような扱いをしています。

 劇伴のニュアンスが変わってしまいかねないのが難点なのですが、私の中のトレードオフとして、そこは仕方ないと割り切ってやっていますね。

 

 それから、緩急の付け方。

 たとえテンポがまっとうであったとしても、それが一本調子であっては、適切な効果を発揮することはできません。

 1つのエピソードの中には当然ながら、視聴者の心を急かしてなんぼな部分もあれば、ゆったりとした気持ちを導いてなんぼの部分もあります。

 それらを同じ調子で進めていたら、結果としてすべてのパートが活きなくなってしまいます。

 展開そのものが持つGと、それを見せる手法のGが、ぴったり一致しているかどうか。これも非常に大切なところでしょう。

 

 ……通常「間」と言ったときには、だいたいこのようなことを挙げておけば、それでほぼ十分であるとされるはずです。

 しかし私としては、ここにもう一つ、「間」を駄目にする最大級の要素として、次のようなことを加えておきたいと思っているのです。

 それはズバリ、「『常に1秒先が読める』演出をしてしまうこと」。

 

先読みによって「間」の命が消える

 アニメは――これは偏見も込みですが――他のメディアと比べて、クリシェが多用されるものなのではないかと、私は考えています。

 それ自体は決して「悪いこと」ではありません。記号云々といった難しい話は置いておくとしても、それがアニメをアニメたらしめているところが多分にあり、アニメを愛するということは多かれ少なかれ、その性質を受け入れるということでもある。

 しかし、そのクリシェが広義の演出の細部までをも支配しきってしまうと、そこにはある困った事態が発生します。

 その作品の多くのシーンにおいて、「その『間』を確保するだけの価値」が消え失せてしまうのです。

 

 例えば、会話のシーンでいうならば、あまりにもベタな台詞選びであるがゆえに、あるキャラクターの台詞に対する相手キャラクターの「受け方」がいちいち読める、という状態が挙げられます。

 もちろんエスパーでもない限り、2歩先、3歩先の台詞の流れまで全部わかってしまうということは(よほど濃ゆいクリシェでなければ)ないでしょう。

 しかし、1歩先はその限りではありません。ヒネリの効いていない受け台詞というのは本当に定型的で、ある程度アニメを見慣れていると、字句のレベルで「当ててしまう」ことが可能だったりします。

 その場合、受け台詞の多くが「わかりきっていることの確認」でしかなく、そのために割かれている1秒、2秒……あるいはもっと長い尺が、まったく楽しくなくなる。

 細切れの「死に時間」が作品全体に散りばめられた状態になるわけですね。

 

 あるいは、展開にもクリシェはあります。

 これはアニメファンのあいだでもしばしばネタにするところですが、敵を攻撃して煙が舞い上がり「やったか!?」と誰かが言ったら、その煙が晴れたときにはまず間違いなくノーダメージの敵が立っている。

 まあ、ここまでベタだと逆に面白がる向きもあるかもしれませんが、少なくとも私はそういう派には属していません。

 そういうことをやられると、遡って、攻撃をしたその瞬間から無傷の敵が見えるまでのすべての時間が、無駄としか感じられなくなります。

「間」が呼吸を停止する時間ですね。

 

 ここでイラッとするのは、作劇上は一応、さも視聴者が「攻撃の結果どうなったか」をドキドキしながら待っているテイで組み立てられているところです。

 何だか、向こうの不手際について、勝手に共犯に仕立て上げられたような気持ちになるんですよね。

 こっちは結果をわかっているし、こっちがわかっているということを作り手もわかっているのに、それでも生み出されてしまうその種の時間が、私には本当にきついものに感じられるわけです。

 

 他に似たようなやつを挙げるとしたらアレですね、気の強い女の子を待たせてしまった主人公が、その子の前に駆け寄る。その子の足元あたりから画面がブーム(カメラの縦移動)で顔まで上がっていき、女の子の怒った表情が映る。

 そして次の台詞は――おわかりですよね、そう、「遅い!」です。

 この数秒だけで、映像的生命とでも呼ぶべきものの火が消えかかる。連続性が重要である映像作品において、こういうのは看過できない現象だと私は考えているのです。

 

「ちょっと細かいことを気にしすぎなんじゃないの?」

 そう思った方もおられると思うのですが、私としては、ある作品の中にぽつぽつこういうのがあるという程度なら、特に問題にはしません。

 問題なのは、すでに述べていることですが、こういった演出方針が「支配的になった」場合です。

 映像はどこを切り出しても退屈なものとなり、まとまった量の「生きた尺」を味わうことができなくなる。

 たとえクリシェの芸術たるアニメといえど、私は常に「次の瞬間」に対し、未知なるものへの期待を持って視聴に臨みたいのです。

 

少しだけ外す技術

 かといって、何から何まで斬新性に溢れていても、飲み込むことの難しい作品になってしまいます。

 受け手はそこまでの鮮度にはついていけません。

 この辺りが我ながら身勝手なところで、まあこれだけ言いたい放題言いつつも、最終的には作り手に対して「こちらのキャパの限界も考慮してくださいね」とお願いすることになるわけですね。

 結果として、ある程度の「馴染みのしぐさ」は必要になるでしょう。

 

 ただ、細部のちょっとしたやり取り、わずかな動き、そういう「何てことのない」ところを、なあなあで流さないようにすることは、重視して欲しいなと思うのです。

 もちろん様々な事情があるでしょう。例えば原作付きのアニメの場合、仮に原作の台詞回しの中に、映像化にあたっての難点があったとしても、細かな諸々を変えていくことが認められない場合もあるかと思います。

 なので「退屈な『間』がそこにある」からといって、それを単純に「アニメスタッフに問題がある」と繋げることはできないのですが、いち視聴者の願いとしては、何とかそういう「間」を作らずに仕事を完遂していただきたいんですよね。

 

 ちなみに台詞レベルの「間」作りで言うと、今季なら『まちカドまぞく』が良い味を出しているのではないかと思います。

 あれは一歩間違うと最初から最後まで退屈なものになってしまいかねない内容だと思うのですが、終始油断のならない台詞回しを披露していくことで、悪い意味で「知ってた」とならないようにしている。

 大筋が「ありもの」であればあるほど、そういう工夫は必要になってきますよね。

『まちカドまぞく』はその点、自分が「そういうことを特に頑張らなければならない」作品であることにとても自覚的であるように私には感じられるのです。

 毎週楽しみに観ております。

 

www.tbs.co.jp

おわりに

 とまあ、このようなことを考えて、普段アニメを観ている次第です。

 私としては、とても重要なことを重要だと捉えているだけのつもりなのですが、あるいはこれは、少なくともアニメの世界においては、マイノリティの物の見方なのかなと思うこともなくはありません。

 ここで私が言っている意味で「『間』を正しく作る」のは、私が思っている以上に難しいことか、あるいはアニメ業界人や通常のアニメファンがあまり意識しないことなのかもしれない。

 だとすると、当記事は私が一人であさっての方向に吹き上がっていることになっちゃいますよね。

 

 当記事のタイトルの最後「……が」に込めたのは、その辺りへの想いです。

 

 瞬間瞬間が楽しいアニメを。クリシェを省エネや逃げに使わないアニメを。

 こういったことでガッカリさせられる作品は、できれば一つとして観たくないのですが……。

 いろいろな意味で燃費の悪いことを要求しているのだとしたら、ちょっと言いにくくなるなあ。