天国的底辺

二次元、創作、裸足、資格試験、その他諸々についての思索で構成されたブログ

お気持ちヤクザの育て方

 今日は「お気持ちヤクザ」について書いてみようと思います。

 この言葉をよく知っていて、嫌というほどそのタチの悪さを体験しているという方も、今初めてこの言葉を知ったという方も、少々お付き合いいただければ幸いです。

 

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お気持ちヤクザとは

 お気持ちヤクザというのは、ここ最近SNSを中心によく使われるようになった、いわゆるネット用語です。

 よって、その正確な意味がどこかの辞書に載っているわけではないのですが、おおむね次のような意味で使われています。

「自身の不快感の対象を社会悪と定義し、それを社会全体から排除しようとする存在」

 まあ、独善の一つの在り方に名前が付けられた、と考えておけばよいかと思います。

 

 お気持ちヤクザは様々な分野に出現し、自分達の気に入らないものをあの手この手で排除しようと活動しています。

 私はオタクなので、自分の観測の範囲内でいうと、いわゆる「萌え絵」の類を攻撃する自称フェミニストの方々などがその最たる例になるでしょうか。

 成人向けの漫画作品を規制しようとする、などは当たり前。近年では、行政が何らかのPRに萌え絵を使おうとするときに、「これは性的だ。性的搾取だ」と主張し、その撤回を要求する、というような活動に熱心なのが見られます。

 

 もちろん、世の中には様々な考えがあって然るべきなので、何かを気に入らないということ自体は尊重されるべきです。

 問題は、お気持ちヤクザ達の思想を尊重しても、彼らの側から私達への尊重が見られることは断じて無い、というところです。

 彼らには話し合うとか譲歩するといった概念がありません。

 自分達に合わせて社会を作り変えるにあたり、「誠意を見せろ」「まずは我々に対して仁義を通せ」とひたすら要求してくる。そして少しでも相手が譲歩する姿勢を見せると、それに満足するどころか、むしろさらに一歩踏み出した要求を突きつけてきて、自分達の要望が究極的に叶うところまで相手を追い込みにかかる。

 まさにヤクザという呼称がぴったり当てはまるやり口だと言えるでしょう。

 

 ただ一つ、本物のヤクザと違うのは、本人達はそれが「正しい行為」だと本気で思っているフシがあるところです。

 自分達が不快に思うものは「悪いもの」なのだから、それを社会から排除しようとするのは「正しいこと」に決まっている。それを実現しようとする自分達に反対する人間は皆「悪い人間」だ――というわけです。

 人間には誰しもそういう面があるのかもしれませんが、彼らのそれはあまりに徹底しており、ほとんど病的と言って差し支えありません。

 

あなたの子供をお気持ちヤクザにする方法

 彼らの言動を目にするたびに、私などはこう思うのです。

「いったいどのような環境に生まれ、どのように育てられると、あのような人間が出来上がるのだろう?」

 これは皮肉とかではなくて、本当に不思議なんですよね。

 何がどうなったら、自分の個人的な不快感をそこまで持ち上げることができるのか。そしてそのために妙な行動力を発揮することができるようになるのか。

 

 というわけで、今回ちょっと考えてみました。

 たぶん、あなたの子供をお気持ちヤクザを育てたかったら(そんな人がいるかはともかく)、以下の4つを重視するのが効果的なのではないかと思います。

 

とにかく肯定してあげる

 まず、お子さんの行動をとにかく認めてあげましょう。

 もちろん、どんなことをしても褒める、とかではありませんよ。深刻なイタズラをしたら叱るべきですし、欲しいと言ったオモチャを何でもかんでも買い与えるなんてのも厳禁です。

 しかし基本姿勢として、「お子さんの思い抱くことは光のほうを向いている」のだと信じ、それをできる限り伸ばしてあげることを心がけるべきだと思います。

 

 これによって、お子さんには自己肯定感が植え付けられます。

 自分の中から湧き上がるものに自信を持つ――これはとても大切なことであり、将来他の人間とやり取りをするにあたって、貴重な「根っこ」となるでしょう。

 

行動する大切さを説く

 次に、「何かを願うならば、実際に行動してそれを実現する」このプロセスの大切さをしっかり説くべきだと思います。

 これについては、お子さんに口で言うだけではなかなか伝わらないでしょう。親であるあなたが、自身の人生においてもそのような実行力を発揮し、「背中で子供に伝える」必要があると思います。

 

 そのような暮らしを通常のものとすることで、お子さんはきっと、思い立ったら躊躇なく実行する人間に育つことでしょう。

 当たり前のことですが、世の中というのは、ただ待っているだけで自分の願いが勝手に叶うところではありません。

 望むことがあるならば、成功したいのならば、然るべきときに然るべき行動を取らなければならないのです。

 お子さんの体に、その癖をしっかりと染み込ませておきましょう。それは将来的に必ず、お子さんを望む場所へと導いていくことになります。

 

大衆娯楽を制限する

 娯楽のすべてがくだらないというわけではありません。

 中には心を打つようなものもあり、人を育ててくれるものもあります。昔から語り継がれたものもありますし、今も日々、そういったものが生み出されている。

 

 しかし残念ながら、娯楽の多くは俗物的で利己的です。その場で馬鹿騒ぎができればそれでよいというコンセプトのものがあまりに多い。

 それらに毒されることは、お子さんの情緒をまっすぐに形成する上で、大きな障壁となるでしょう。

 あなたはお子さんの行く末についての重大な責任を背負っているのですから、そういったものをお子さんに近づけない努力をしなければなりません。

 娯楽の選別は慎重に行うべきです。お子さんには良質な体験のみを与えるようにしましょう。

 

異端に触れさせない

 世の中は残念ながら、どこに出しても恥ずかしくない立派なものだけで構成されているわけではありません。

 いろいろな面で「いかがわしい」もので溢れてもいるところです。

 呪い、穢れ、と言ってしまうのは時代遅れですが、そういった「いかがわしい」ものは、その知識を入れるだけでも危険です。お子さんの心を蝕み、耐え難い誘惑としていつまでも根付くことになる。

 

 あなたは親として、そういったものを断固としてお子さんから切り離さなければなりません。

 何かを学ぶことは尊いことではありますが、世の中には知る必要のないもの、というのも確かに存在するのです。

 見聞を広める、といったお題目を意識するあまり、闇雲にお子さんを様々な知識に触れさせてしまうのは、控えめに言っても「汚染」であると言えましょう。

 親であるあなたが、良きフィルターとなってあげてください。

 

お気持ちヤクザと純粋さは紙一重

 ……といった感じでしょうか。

 恐らくあなたは「え?」と思われたのではないかと推測します。特に問題がある内容ではなかった気がするけれども、と。

 実際、私も原則としてそのように書きました。ちょっと考えてみたのですが、お気持ちヤクザが育つ背景には、単体であからさまに邪悪な教育方針は特に見当たらないのではないか、という結論に至ったのです。

 それで、上記の4つを挙げてみた次第。

 

 では、この4つの何がお気持ちヤクザを育ててしまうというのか?

 もちろんこれはすべて私の想像の域を出ないのですが、上記の育て方が「すべて、文字通りに」運んでしまった場合、後半の2つが持っている「一方的な視点からの排他性」が悪いほうに出てしまい、お気持ちヤクザが出来上がってしまうのではないでしょうか。

 

 私は思うのですが、一人の人間が大人になるまでの「学び」の内訳には、「年長者から教育されたもの」の他に「その中で禁じられたものへのちょっとしたアクセス」も含まれているのではないかと思うのです。

 つまり、親や先生に言われたこと「だけ」を忠実に守っても、まともな大人にはなれないようになっている。彼らに「駄目」と言われたものにも触れることで、多様性と幅の広さを獲得し、バランスの取れた人間になれる。という寸法です。

 一例を挙げるなら、性情報を悪魔でも追い払うかのように子供から遠ざける風潮の中で、独自にそれを娯楽物から仕入れたり経験したりしなかった子供は、いつまで経っても性的にまともな関係を築けなくなる、というのがそれでしょうか。

 

 要するに「純粋培養」がお気持ちヤクザが出来上がるキーなのではないか、ということですね。

 純粋培養された人間の多くは、その純粋さゆえに「いわゆる正義感」というものに満ち溢れていることが多い。

 その正義感をもって行動するわけですが、いかんせん「異なるものを学んでこなかった」人間なので、了見が非常に狭い。

 それらと、徹底した自己肯定とが掛け合わさって、自分の不快感に異様な正当性を見出すようになってしまうのではないかと、私は考えています。

 

 このことに政治思想などは関係ないため、いわゆるリベラルと呼ばれている側の人間にも、このような狭量で独善的で攻撃的な人間は山ほどいるのが、皮肉なところです。

 彼らは口では多様性を尊びつつ、実のところは「自分が価値ありと認めたもののみその存在を許す」という発想でしか考えていなかったりする。

 なので「リベラルによる弾圧」なるものが生まれてしまうわけですね。

 人間の業というものを感じざるを得ないところです。

 

暴走する「正義」との戦い

 そのようなわけで、最近は「正義」という概念を、以前より警戒するようになりました。

 もはや「何が正しいのかを考えること」すら、人を武器に変えてしまうのではないかと思える状況になっているからです。

「私は弱者の声を代弁しています」などという主張は、その最たるものですね。

 本来はとても大切なことのはずなのですが、あまりにも胡散臭かったり独りよがりだったりする人が増えてしまった。

 

 事の本質は昔とそんなに変わっていないと思うのですが、今はネットがあり、簡単に徒党を組める時代なので、変な方向に尖った人が、変な方向に活動しやすくなっています。

 それと同時に「少数派の声をきちんと拾おう」的な動きが社会全体で以前より育ってきているため、両者が合わさって「変な方向に尖った人の願いが実現しやすい」社会になってしまったように感じます。

 

 私は基本的に、おかしな人を自分が直接監視するようなネットの使い方をしていません。

 なので当記事で書いたことも、他の誰かの監視活動経由で流れてきた情報を、独自に膨らませたものに過ぎなかったりします。

 でもこれって、その「他の誰か」におんぶに抱っこで暮らしている、ということなんですよね。

 誰かがお気持ちヤクザ達の(主にネット上の)言動を監視し、何かあったらそれに素早く対抗するスタンスでいないと、いつの間にか世の中がとんでもないことになっている可能性があるわけですから。

 今のままでいいのかな、でも活動家みたいなことはしたくないんだよな――その辺りで、そこそこ葛藤があったりする、今日この頃です。

 

おわりに

 どういうわけか、放っておくとどんどん息苦しくなっていく、この社会。

 何かが間違っているのか、それとも他の恩恵と引き換えに受け入れなければいけないコストなのか、定かではありませんが、とりあえずお気持ちヤクザは個人的に認めたいとは思いません。

 しかし、すでに出来上がってしまったお気持ちヤクザを「再教育」することは、たぶん無理でしょう。それは思想ではなく、もっと根っこのほうに位置する「魂の在りよう」みたいなことなので、一定の年齢に達してしまったらもう手遅れなのです。

 

 そうなると、私達にできるのは、彼らの暴走に対抗しつつ、未来を担う子供達をそのような存在にしないよう、上手く育てていくこと、くらいになるでしょう。

 私には子供はいませんし、まあ恐らく私の子供を産んでくれる人など生涯現れないでしょうが、とりあえず意識はしておこうと思います。

 これ以上、お気持ちヤクザが増加しませんように。