天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

外国人に鯨食を指摘されたら、全ての命に価値を認めている証と言い張ろう

架空の西洋人「なあ、確かキミは日本人だったよね?」

 

 ええ、そうですよ。

 

架空の西洋人「ちょっとキミの意見を聞きたいんだけど、いいかな。――日本人って、今でもクジラを食べるんだろう? それについて、キミはどう考えているの?」

 

 

知能の高い生き物

 それに答えるためには、まずあなたの価値観を把握する必要があるので、そこのところをちょっと聞かせてください。

 そういう質問をするということは、あなたはクジラを食べる習慣には反対なのですか?

 

架空の西洋人「そうだね。僕は反対だ」

 

 その理由は言えますか?

 

架空の西洋人「彼らの知能はとても高い。もちろん人間に匹敵するようなものではないけれど、他の多くの生き物と比べればその差は歴然としている。

 それに凶暴性のようなものがとても低く、とても優しい生き物でもある。

 それってとても素敵なことだし、敬意を払うべき存在であると思うんだ。いわば人間の友達だよ。

 友達を殺して食べてしまうというのは……僕にはとても残酷なことに思える」

 

 なるほど。

 ポイントは知能の高さと、凶暴性の低さ、そしてそれらからくる親近感。といったところであるという解釈で構いませんか?

 

架空の西洋人「まあ、そうなるかな」

 

 私が以前どこかで読んだ話では、かつてどこかの国際会議みたいなところで似たような話題になって、最後に日本代表に向かってどこかの国の人がモノを投げつけて、一言”Murderer!(人殺し!)”と罵ったそうです。

 クジラを殺すのは人を殺すのと同じ、従ってお前ら日本人は殺人者だ、というわけですね。

 あなたもこの言動に与する立場ですか?

 

架空の西洋人「うーん、実際にそういう行動に出ることに全面的に賛成するわけではないけれど、でもそれを言った人達の気持ちは正直、わかる。

 敬意を払うべき命を奪って食べてしまうというのは、人間を殺すことと同等とまでは言わないにせよ、残酷な殺害の範疇に収まるように感じるよ」

 

 なるほど。

 

一寸の虫にも五分の魂

 

 まず結論から言いますと――私には、あなたのような考えの人達は、明白な差別主義者であり、非常に傲慢であるように感じられますね。

 

架空の西洋人「差別主義者? ちょっと待ってくれ、それはどういうことだい?」

 

 日本にはこんな諺があります――「一寸の虫にも五分の魂」。

 どんな小さな、取るに足らないような生き物にも、れっきとした命が宿っていて、それは皆尊いものだという価値観が諺になったものです。

 

架空の西洋人「優しい諺だね」

 

 そうですね。

 それでここが肝心なところなのですが、日本人は――もちろんすべての日本人が同じように考えるわけではないので、これはあくまで傾向ですが――この諺の「公平さ」の部分に関して、文字通りの価値観を持つ傾向があるんですよ。

 つまりこういうことです。

 人間の命はもちろん尊いですよね? そしてあなたの言う「知能の高い他の生き物達」の命も尊い。人間と好意的な関係にある様々な種族の命も尊い。

 でもそれだけではなくて、本来的にはそれ以外のあらゆる生き物、それこそ一匹の虫から植物から微生物に至るまで、生きているすべてのものは尊いのだというところから思考をスタートさせるわけです。

 

架空の西洋人「それは博愛主義ということ?」

 

 博愛主義とは少し違います。先ほども言いましたが、ここで肝心なのは「公平さ」です。

 つまり、神の目から見れば、すべての命の価値は等しいものであろう、というのが日本的な発想なんですよ。

 ここでいう神というのは、西洋の神ではないのはもちろん、神道の神とも違います。「どこでもない高みからこの世界を見下ろす視点」くらいに考えてください。

 そういう視点で見ると、知能の高い生き物も低い生き物も、動物も植物も、皆同じ価値の命を抱えて、日々生命活動を続けていることになる。

 起点はこんな風になります。

 

架空の西洋人「ふむ……そこが起点になると、考えがどう発展していくんだろう?」

 

 すべての命が基本的に等価値だというところからスタートすると、命のやり取りをする意味が、西洋的な発想とは大きく異なってきます。

 一番のポイントは、「価値が高いから殺してはいけない」という発想が生まれないのと同時に、「価値が低いから殺してもよい」という発想も生まれない、というところだと私は考えています。

 そもそも「殺してもよい命」というものが、この世に存在しなくなるんですよ。

 クジラがどうとかいう問題ではなく、牛だろうがサーモンだろうがキャベツだろうが、すべての命は等しく尊いものということになるわけです。

 

架空の西洋人「その考え方だと、生きていくことができないんじゃないかな?」

 

 正確に言うと、「尊い命を手にかけることなしに生きていくことができない」という風になりますね。

 つまり、生きるということは、尊い命を奪い続ける、ということに他ならないわけです。

 この発想に基づく命の捉え方はシンプルで、おおむね次の2つの対立軸に集約されます。

「我々と同じ種族(つまり人間)か、それ以外か」

「我々に好都合か、不都合か」

 前者は絶対的ですよね。後者は人によって解釈の分かれるところでしょう。でもまあ大体において、これが日本に蔓延っている考え方です。

 西洋的価値観との違いがおわかりですか? 命の価値によって殺すか殺さないかを決めるわけではないんですよ。

 そして、この価値観に基づくと、西洋的価値観の中に、ある根本的な違和感を見出すことになるのです。

 それが何か、おわかりですか?

 

架空の西洋人「うーん……何だろう?」

 

 それが差別主義です。

 

動物愛護は差別主義の表れ

 もちろん日本にも見られるところでは見られるのですが……特に西洋人は、いわゆる高等動物と愛玩動物への愛を、めちゃくちゃ強制してきますよね。

 一部のヴィーガンと呼ばれる人達はこれをさらに押し進めて、「動物を食べることは尊い命を奪うことと同じだ。とても残酷なことだからやめるべきだ」と主張している。

 

架空の西洋人「彼らはちょっと特別だよ。一般的な西洋人の考えとは違う」

 

 まさにそこです。

 日本人からしてみると、そこで言う「一般的な西洋人の考え」と「一部ヴィーガンの考え」の違いは、同じ価値観をどの範囲まで広げているか、の違いでしかないんですよ。

 クジラを食べることに反対する人達はこう言います。「尊い命を持ったクジラを食べるなんてとんでもない。牛や豚を食べて生きるべきだ」

 そして一部ヴィーガンはこう言います。「尊い命を持った動物を食べるなんてとんでもない。野菜を食べて生きるべきだ」

 結局のところ、どちらもこう主張しているのです――「あっちの命ではなく、こっちの命を奪え。なぜならこっちの命なら価値が低く、奪っても問題ないからだ

 ……すべての命に等しく価値があり、あくまで事情によってそれを殺し分けていると考えている日本人の多くには、それは馴染みません。

 というより、とても残酷な思想がそこから読み取れるのです。

「この人達は、命の価値を勝手にランク付けして、それが低ければ何とも思わずに殺してしまう人達なんだ」

 こう解釈せざるを得ないんですよ。

 そしてこうも思ってしまうわけです。

「だから昔、白人は有色人種を人間としては扱わなかったし、今でも人種差別問題が思いっきり現役でホットトピックなんだろうな」

 

キリスト教が諸悪の根源では?

架空の西洋人「それはつまり……西洋人の思想の根本にそもそも差別主義があって、クジラを守る気持ちも人種差別も、そこから生まれているという意見?」

 

 一文でまとめてしまうと、そこからこぼれ落ちる多数の例外を無視するかたちになるので乱暴に感じられますが、まあ、大筋ではそうです。私はそう考えています。

 西洋人は差別主義者だからクジラを愛し、それを食べる日本人を責め、自分達は人種差別問題を解決できずにいるのです。

 そしてこれは本当に個人的な発想に過ぎないのですが、そもそもキリスト教がそういう風になっているのではないかと思うんですよ。

 あなたはキリスト教徒ですか?

 

架空の西洋人「一応そうなっているよ。プロテスタントだ。まったく熱心ではないから、教会に行ったことなんて子供の頃まで遡らなくちゃいけないけどね」

 

 だったらあまり怒らせずに済むかな……私が思うのは、キリスト教って人間を特別視し過ぎているんじゃないか、ということなんですよね。

 旧約聖書の創世記に「我々に似せて人間を作ろう」みたいな描写があるじゃないですか。あの辺が私にはちょっと受け入れられないんです。

「どれだけ自分達を偉いを思っているんだろう」みたいなことを思ってしまうんですよ。

 人間なんて、単に知能が高いからたまたま地球の支配的種族になれただけの存在じゃないですか。

 しかも支配といっても、あくまで自分達の棲息領域を広げることに成功しただけで、生身でジャングルに投げ出されたら単なる弱者に過ぎない。

 知能が高いなんてその程度のことなのに、それを命の価値にまで無理やり広げて当てはめて、地球上で最も尊い命が人間の命、みたいなことを考えている。

 そしてそこから、知能が人間に近い生き物ほど、人間に次いで尊い、というところに進んでいる。

 キリスト教徒って、物心つくまでに差別主義にどっぷり浸かっている人達で、そこが病巣であるように感じられるのです。偏見も込みなのは認めますけどね。

 

おわりに――多様性の話

架空の西洋人「なるほど、キミの意見はよくわかったよ。正直なところ、少なくとも今すぐ受け入れるのはちょっと難しそうだけれど」

 

 こういうテーマでは、必ずしも相手を理解する必要はないと思いますよ。

 何というか、魂の根底から作りが違っている、という話ですからね。後から築き上げた知性と理性で塗り替えるには、あまりに根本的すぎる対象ではないかと。

 でも「お前の価値観など到底認められない」から「消えてなくなれ」まで進んでしまうと、それも違いますよね。

 私としては、ここで「理解できないものが自分の隣で生きている」ことを、理解できないまま受け入れることこそ、欧米で流行りの「多様性」というやつではないかと思うんですよ。

 多様性って流行っていますよね?

 

架空の西洋人「そうだね、あちこちで語られすぎて、いろいろなことの火種にもなっている」

 

 私が多様性について語っている人を見ていて思うのは、「皆に同じスタンスを取ろうとさせるナンセンスな勢力がある」ということですね。

 それはむしろ多様性とは正反対じゃないですか。

 本当か嘘か知りませんが、クリスマスに「メリークリスマス」と言うのが宗教的問題として憚られて「ハッピーホリデーズ」が使われているとか、全然自分と異なる価値観を認める方向とは違う。

 多様性が実現した社会って、人々の思想や嗜好の論理積(皆が認めるものだけ認められる)ではなく、論理和(誰かが認めるものは認められる)が白昼堂々と踊れる社会のことだと思うんですよ。

 その社会では、隣人がクジラを食べたり、クリスマスを祝ったり、豚肉を決して食べなかったりする。

 そこで、良い意味で「まあ、どうでもいいよね」となることが重要だと私は思うわけです。

 

架空の西洋人「そこは同感だね」

 

 だいぶ話が逸れてしまいましたが、私の考えは大体こんな感じです。

 ……ちなみに私はクジラって一度も食べたことないんですよね。あれってどんな味がするものなんでしょうね。

 

架空の西洋人「食べたことないの? その割には結構な論陣を張ったね」

 

 まあ、以前から気になっていたことだったので。

 

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