皆さんは議論することが好きですか?
私は特に好きでも嫌いでもないのですが、その重要性は理解しているつもりです。一人の人間の頭から出てくることを、そのまま無批判に採用するだけでは、世の中は立ち行きませんからね。
今日はそんな議論について、思っていることを少し書いてみようと思います。
議論が本来あるべき姿
議論とは何のためにするのでしょうか?
この問いに対して完璧に答えるのはなかなか難しいと思うのですが、少なくとも次の2つを述べておけば、及第点はもらえることでしょう。
- 相手に意見を伝え、相手の意見から学び、お互いに議論前よりレベルアップするため
- 新しい知見を生み出し、共有するため
そう、議論とは生産行為の一環です。個人が持ち寄ったものを互いの言葉によってブラッシュアップし、より良い何かに繋げていくことが、その存在意義。
共同制作、という表現を使ってもいいかもしれませんね。
それが見られないなら、わざわざ議論などする意味は(それがよほど好きでたまらないという場合を除いて)ほぼ無いと言っても過言ではありません。
ネット議論はさにあらず
そのような行為であるところの議論、リアルの様々な場面に限られず、ネットでも日常的に行われているのは、皆さんもご存知のことと思います。
そして、それらを丹念に追いかけたとか、あるいは参加してみたという経験のある方は、同時に次のことを身に沁みて感じているのではないでしょうか。
「ネットの議論が有意義であったところを、ほとんど見たことがない」
議論というのは往々にして、異なる意見を持つ者同士で交わされるものです。
議論をする前段階では、お互いの意見の詳細はよくわかっていない。そこから始めて、相手の意見を聞くことでその相手について理解をし、一方では自分の意見も論理的・理性的に伝えることで相手に理解させる。
そういうパターンが王道的と言えます。
しかしネットの議論においては――私の観測範囲が偏っているだけである可能性もゼロとは言えないのですが――やり取りによって「無理解が理解に変わる」ところをまず見られないんですよね。
異なる意見の者同士で議論が始まる。お互いが持論を述べる。そこまではいいのですが、相手の持論に対する「なるほど」が一向にない。
その結果どうなるかというと、単なる潰し合いが展開されるわけです。
「私が正しくてお前が間違っているのだ」というのを主張しあい、相手に「参りましたすみません」と言わせることを最終目的とする、文字通りの潰し合い。
実際には相手の口からそんな言葉が出てくるわけはないのですが(この辺については、いずれべつの機会に記事にしたいと思います)、それでも相手をやり込めようと必死に口撃を重ねるんですよね。
で、最終的には勝ちも負けもいまいち不明瞭な、ぐしゃぐしゃっとした状態のまま、戦いは何とな~くフェードアウトしていくのです。
ネット議論を支える人々
そんなネット議論ですが、いったいなぜそういうものばかりが目立つのでしょうか。
それは、ネット上に存在する論者の多くが、議論に臨む人間としてちょっと特殊な性質を持っているからです。
以下に、その性質を(言い換えるなら、議論というものとの相性の悪さを)挙げていきましょう。
己の結論を拡散するために議論している
ネットで議論する人達の多くは、新たな知見を得たいと思って活動しているわけではありません。
いや、一人ひとりに聞いて回ったわけではないのでこれは私の想像ですが、明らかにそうでなければ成立しないスタンスを取るので、間違いないところでしょう。
彼らはそうではなく、己の持論を「その問題の結論」として相手に植えつけるために議論をするのです。
彼らの胸の内にあるのは、「正解が自分の頭の中にある」という強烈な自意識。
それはそのまま、「現在の相手は間違ったことを考えている」という、無意識的な見下しに繋がっていきます。
そんな状態から生まれる言葉といえば、「この私の素晴らしい論理で、お前を正しく矯正してやろう」的なものしかありません。
当然、そんな言葉で相手を変えられるはずもなく、そのことでさらに苛立ちは募り、悶着は深く根深くなっていくわけです。
意見が変わるのは敗北で屈辱で破滅だと思っている
上記の性質から必然的に導き出せるのがコレです。
彼らは自分の「現在の意見」こそが正解であると強く信じているため、議論が終わった後にそれまでとは少し違う自分になっている――というのを良いかたちであるとはまったく考えていません。
むしろ、そのように自分が変わってしまうのは、相手の意見のほうが正しかったという証拠と考えるのです。
つまり、意見を変えるというのは相手に言い負かされるということであり、とても屈辱なことであり、その場において破滅することだという価値観で動いているんですね。
そうするとどうなるかというと、根拠を論理的に否定されても結論を引っ込めることをせず、べつの根拠とさりげなく取り替えて同じ結論を維持する、不死身の論者が出来上がります。
哲学的ゾンビ、という言葉がありますが、これはさしずめ議論的ゾンビですね。もうとっくに「終わっている」のに、それを認めず元のまま蠢き続けるという点で。
言うまでもなく、そこには何の価値もありません。
他人の言い方に敏感すぎ、己の言い方に鈍感すぎる
ネット議論は音声ではなく文字で行われるため、リアルの議論であれば「言葉+イントネーション」で伝えられたニュアンスを言葉だけで伝える必要が出てきます。
でもこれがなかなか難しく、言葉だけだと多くの場合、冷たく言い放つようなニュアンスになってしまいがちです。
ここでまた問題が発生します。ネット論者の多くは、相手からそのような冷たいニュアンスが放たれたときはそのことに敏感に反応する一方、自分の言葉についてそうならないように気を遣う様子はあまり見せないのです。
一言でいってしまえば「言葉を大切にしていない」ということなのだと思いますが、それにしても皮肉なのは、傷つきやすい人間ほど傷つけることに無頓着であるという構図ですね。
あるいはネットによらず「人とはそういうもの」なのかもしれませんが、議論がしたいなら、そこは相当なエネルギーを支払ってでもしっかりしておくべきでしょう。
なぜそれをしないのか、個人的には非常に謎なところです。
そもそも怒りたくてネットをやっている
いちばん身も蓋もないのがこれですね。
そもそも理解を示すとかそんな穏当なことには興味がなく、とにかく人々に、政治に、目の前の相手に対し、お前はわかっていないと怒って怒って怒りまくるために、ネットでいろいろな言葉を拾っている。
そうとしか考えられない人というのが、確実に一定数います。
これはもう……どうしようもないとしか言いようがないところですね。
こちらがどれだけまともに議論する姿勢を見せようとも、大元のコンセプトがまったく違うわけですから、何かが是正されることは期待できません。
そもそも出会ってしまったことが間違いだったのです。
そっと離れて、一刻も早く忘れるよう努めましょう。それが最も健康的です。
それでも有意義なネット議論をしたいときは
そんなわけで、基本的にはネットで議論しようとすることそのものが、あまりオススメできるものではありません。
議論は相手があって初めて成立するもので、自分の意識だけが整っていても、残念ながらそれでどうにかなるものではないからです。
それでもどうしてもネットで有意義な議論がしたい! という場合は、とにもかくにもまず相手の人柄を読み取りましょう。
ここがいちばん重要になります。一般的に言われる知性とか知識量は二の次です。
人柄が議論するのに向いているかいないかが、最初に判断すべき事柄にして、最大の成立要件なのです。
具体的には、相手の(つまりあなたの)言葉をひとまず飲み込んで「なるほど」と返すことのできる人かどうか。ここがポイントになります。
これさえできそうな人物なのであれば、たとえテーマについてたいした知識がなくても、それなりに議論の相手として「使える」はずだというのが、私の考えです。
あるいは、変わりたがっている人。今の自分が持っている結論にこだわりがなく、いつでもそれを捨てる準備が整っていそうな人。
そういう人も、議論の相手としては適正があると言えるでしょう。
もちろんこれは、あなたにも議論適性があることが前提の話です。
相手が上記の要件を満たしていたとしても、それをいいことにあなたが相手にひたすら持論を刷り込もうとするのであれば、それは相手から見てあなたが「議論に向いていない人」なので、やはりまともな議論は成立していないことになります。
その辺は注意すべきでしょう。
おわりに
こういう話をすると、次のようなことを言う人が出てきます。
「ネットは匿名だからまともな議論ができないんだ。議論をしたければ実名でするべきだ」
しかし、かつて活発だったfjというニュースグループでは、実名を名乗る人々による、ものすごく過激な罵り合いが日常的に展開していました。
あの様子を覚えている人、あるいは知識として知っている人なら、上記の実名云々が単なる幻想にすぎないことがよくわかると思います。
匿名だろうが実名だろうが、ネットの議論は生産的でありにくいのです。
私としては先述した通り、基本的にネットでは議論らしきものに手を染めないほうがいいという意見です。
それ以外に楽しいことはいっぱい転がっているので、それらにどっぷり浸かっているだけで、可処分時間などすぐに使い切ってしまうことでしょう。
少なくとも趣味でやるネットなんて、それでいいんじゃないかと思うんですよね。
もちろん最終的には個々人の自由なのですが……ネットの議論モドキは人の精神的健康を蝕むところがあるので、あまり近づくべきではないと真面目に考える次第なのです。
まあ、お互いに気をつけて、楽しくやっていきましょう。
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