あなたは真面目なタイプでしょうか、それともまったく正反対のタイプでしょうか。
これはなかなか、答えるのが難しい問いではないかと思います。
ある領域では真面目だがそれ以外ではそうでもない、というような複雑さもありますし、真面目という言葉のニュアンスによっても、どう答えるべきかが変わってくるところがあるからです。
今日は後者、真面目という言葉のニュアンスについて、少し書いてみたいと思います。
辞書から離れた独特のニュアンス
目の前の人間に向かって言う「真面目だね」。
あるいは、その場にいない誰かについて言う「あの人は真面目だから」。
これらの言葉を、言ったり聞いたりしたことのある人は多いでしょう。
だからたぶん、次のような感覚はほとんどの人に理解していただけるのではないかと思います。
「真面目」という評価には、どこかその対象を馬鹿にしているようなニュアンスが宿っていることが多いですよね?
もちろん、全部が全部そうなわけではありません。心の底から尊敬するように使われることだってあるでしょう。
でも、明らかに無視できない割合で、冷笑というか、後ろに草が生えているというか、そういう種類のものが確認できると思うのです。
「あの人、ほんと真面目だからw」
こんな具合に。
要は「馬鹿にしている」わけで、当たり前のことですが、人を馬鹿にするのはあまり褒められた行為ではありません。
ただ、その原因となる要素が、馬鹿にする側とされる側――つまり、「真面目」と言った側と言われた側の、どちらにより強く認められるのかは、その時々によるというのが、私の考え方です。
誰かを馬鹿にする「責任」は馬鹿にした側にありますが、「原因」はその限りではない、という意味で。
ではその「原因」には、どのような種類が考えられるでしょうか?
以下、原因をその所在ごとに分けるかたちで、少し並べてみたいと思います。
真面目と言う側に原因があるケース
まずは言う側に原因があるケースから行きましょう。
この場合、原因も責任も言う側にあるわけですから、真面目呼ばわりは要するに「言いがかり」に他ならないことになりますね。
抑制のきかない自分に言い訳をしている
真面目という評価が、「すべきでないことをしない」という不作為から生まれたものである場合、このようなパターンが多く見受けられます。
言う側が「それをせず我慢することのできない」人間で、でもそれをそのまま自分の評価を下げる要素として受け入れることもしたくないというときに、「わざわざルール(あるいはマナー、常識)を守って、何が楽しいのかねえ」という風に、抑制のきいていることのほうを貶めにかかるわけですね。
このようなパターンにおいては、往々にして言う側には「複雑な言葉を持たない」傾向が見られます。
なので、言われた側が何か反論をしても、その反論に対してさらに半笑いになることでしか応じないことが多い。
俗に言う「話にならない」状態なので、あなたがこのパターンで真面目と言われたなら、特に相手にしないのがベストであると思われます。
行動していない自分を守ろうとしている
上のパターンとは逆に、「すべきことをしている」という作為を真面目と評価するときに見られがちなのが、このタイプの侮蔑です。
どちらかというと、コツコツやらなければならない行動が焦点になることが多いですね。
そういうのを一つ一つ積み上げている人間に対して、それをしない人間が「真面目だなあw」とやるわけです。
さも自分が「無駄を省いて効率的に生きている賢い人間」であると言いたげに。
「行動しない人間は、行動する人間を笑うものである」的な言葉は、作家からミュージシャンまでいろいろな人間が残しているので、非常によくあることなのでしょう。
これを言われたあなたは、自分のやっているコツコツが必要なものであると本当に考えているのであれば、これまた相手にしないのがいちばん良い対処法です。
まあ、あなたはやるべきことをやるのに忙しく、周囲のそんな雑音など元より相手にする気にもなっていないでしょうが。
真面目と言われる側に原因があるケース
次に、真面目と言われる側に何らかの突っ込みどころがあるケースを考えていきます。
主体性がなく、言われたままをやっているだけ
先ほど「すべきことをしている」人間を真面目という言葉で揶揄する人種について書きましたが、必ずしもそれが「言った側の自己弁護」とは限らないところに、事の難しさがあると私は考えています。
というのも、「すべきことをしている」こと自体は悪いことではないのですが、それがロボットのように「言われたからただやっている」という行為――主体性の無さの表れであることも、それなりに見られるからです。
そういう人は、やれと言われればきちんとそれをこなす一方、言われていないことについては一切動かなかったりします。
そういう姿勢の結果としてそこにいるのは、減点すべきところはないが加点すべきところもない、何より人として面白味がない、そんな人間です。
そこを「真面目」という言葉で指摘されている場合、これは言われているほうに「原因」があると言えるのではないでしょうか。
ルールの存在理由を考えるまでに至っていない
すべきことをする、すべきでないことをしない、どちらについても、主にそこに存在するルールやマナーに従って為されるものであると言えます。
ルールやマナーを守ることはもちろん大切なことであり、通常そこを指して難癖をつけられる謂れはありません。
しかし(ご存知の通り)世の中には結構頻繁に「通常ではないTPO」が存在するんですよね。
例えば、どこの小学校にも「廊下を走ってはいけません」というルールがあると思います。
これは「通常は」守られるべきであって、律儀に守ることに問題があるはずもありません。
しかし、何らかの緊急事態が生じ、急いでその場を離れなければならないというときに、「廊下を走ってはいけないから」と歩くことを選択する生徒がいたらどうでしょう?
上記はいささか極端な例ですが、この性質を持った光景はたまに見られます。
こういう行動を取る人間は、そもそもなぜルールが存在するのかを考えていないのです。
だから、安全のために用意されたルールを、「わざわざ守るほうが危険である」場合にも遵守しようとする。
このような思考形態を指して「真面目」と評された場合も、やはり言われた側に原因があると考えるべきでしょう。
ただしこのパターンは、発達障害を持っている方がルールやマナーの根底にある「ファジーさ」に対応できずに起こしてしまう場合もあるので、「原因があるというのは、責任があるということではない」というのを、ここで改めて強調しておきたいと思います。
どちらとも言えないケース
言う側と言われる側、どちらに原因があるとも言えないパターンもありますね。
わかりやすいのは、「遊び心の在りようが噛み合わない」パターンではないでしょうか。
Aさんという人がいて、この人の生活態度がBさんの目にはあまりにも堅苦しく映る。人生をエンジョイするという発想がまるで見られず、Bさんの遊びの誘いにも乗ったためしがない。
こんなときに、BさんがAさんを、いささか呆れ気味に「真面目な人だよなあ」と言うことはままあります。
しかしこのとき、本当にAさんが「堅苦しい」人物であるとは限りません。
AさんにはAさんなりの人生の楽しみ方があり、Bさんの観測できないところで、それを十分に堪能していることだっておおいにあり得るわけです。
この場合、どちらに原因があるとも言えるものではありません。
ごくシンプルに、AさんとBさんが違う成り立ちの人間であるという当たり前のことが、ちょっと残念な齟齬となって表れただけなのです。
まとめ
このように、「真面目という言葉で誰かが誰かを馬鹿にする」といっても、そこにはいろいろな形式があり、つまりどういう状況なのかというのは、簡単には断定できないところがあるわけですね。
とりあえず私は今後とも、真面目という言葉にそういうニュアンスを込めないようにしたいと思っています。
「人を馬鹿にするのはいかがなものか」という基本的なことをさておくとしても、この話法は説明した通り、「深掘りすると自分の至らなさに行き着く」ことが十分に考えられるからです。
こんなことでブーメランを自分の頭に刺したくはありませんので。
そしてそれと同時に、自分が原因で真面目と揶揄されるようなことも、できる限り避けたいと思いますね。
どちらかというと私はこちらのパターンに陥りやすい人間です。とりあえず言われたことだけやっておこうとか、ルールはいつでもどこでも守っておけば余計なことを考えずに済むとか、そういうことをやってしまいがち。
こういう記事を書いたのを良いきっかけとして、今までよりちょっと多めに、自分の行動をチェックしていきたいところです。
何と言っても、ごく普通の意味での「真面目さ」は大事だと思います。
それはきちんと実践したいと思いますし、実践している人をどうこう言わないようにしておきたいものだとも、心底思う次第でございます。