今日は少しきわどいテーマで書いてみようと思います。
現在Googleアドセンスに申請中でして、このテーマがポリシーに引っかかるかどうかしばし考えたのですが、子供の頃の体験談ですし、ワードに気をつければたぶん大丈夫だろうということで、チャレンジ精神発動です。
結構真面目な話のつもりなので、あとで引っ込めなきゃいけない、なんてことにならないで欲しいのですが、果たして。
- 裸足が大好き
- 目覚めのときは人それぞれ
- 裸足になることにも同時に目覚めていた
- 登り棒仮説
- 小学校時代に本格化
- 思い出を飾る女子達
- 複雑な心理で為された行為
- 変な目で見られなかったのは幸運だった
- その後
- この記事がOKであることを願います
裸足が大好き
私は、足という部位に対して、特殊な愛着を持っています。
いわゆるフェティシズムというやつですね。
フェティシズム自体、そんなレアな発現率ではなく結構よくある性質で、現在ではそこそこ市民権を得ているものだと思います。
テレビ番組でも日常会話でも、「何フェチ?」みたいな話の振り方が、そこまで特別な雰囲気を用意せずとも成立する程度には、アリなものでしょう。
そしてその中でも、足は対象としてかなりメジャーな位置にあるというのが、私の観測です。
その詳細は人によって様々で、それについてもいずれ独立した記事にしたいと思っているのですが、私の場合はとにかく、何も履いていない裸足。これが本当に大好き。
一言で言えば裸足フェチです。
そして、今はだいぶ薄まったのですが、かつて幼い頃は、自分が裸足になることにも激しい興奮を抱いていました。
今回はその「かつて」の思い出話をしていきます。
目覚めのときは人それぞれ
同好の士がネットで機会を得ると、よく「目覚めたきっかけ」の話になります。
私はこれまでいろいろな方のお話を目にしたのですが、その範囲内でいうと、いちばん多いのはやはり思春期、中学生とか高校生のときであるようです。
例えば、好きだった女子がプール授業のあとに靴下を履かないまま授業を受けていて、上履きを脱いで晒された足の裏にドキッとしたとか、そういうやつですね。
その次にあるのが小学生で目覚めたパターン。これは思春期前夜の、ちょっとフライング気味の発現というところでしょうか。
逆に大学生時代とか、社会人になってからといった話はあまり見聞きしたことがありません。
メカニズムはわかりませんが、どうやらそういうものであるみたいです。
それに対して私は、幼稚園に通っていた頃には、すでに目覚めてしまっていました。
裸足というのは特別な部位で、そこが露わになっているというのは特別な状態である。
そういう価値観が、園児服を着てお遊戯していた頃には早々に備わっていたのです。
人間の成長曲線や記憶の関係上、私は自分より早くに目覚めていたという人を見たことがありません。
残念なのは、あまりに幼すぎて、きっかけを思い出せないことです。
記憶のひとかけらとして、同じクラスの靴下を履かない女子と、何かのタイミングで二人きりになったときに、その素足上履きの足元を見つめていたことだけ頭の片隅に残っています。
ただ、私の通っていた幼稚園は割と「靴下不推奨」のところで、他にも靴下を履かない園児は多数いたはずなので、その光景が特別だったとも思えません。
やはり何がきっかけだったのかは謎なのです。
裸足になることにも同時に目覚めていた
そして重要なのが、同じくその頃すでに、自分が裸足になることにも特別な感覚を抱いていたということです。
この一点において、私は同好の士の中でもかなり特殊なケースに位置づけられます。
通常の場合(この文脈で「通常」という言葉を使うのは若干おかしいのかもしれませんが)、他人の足に惹かれることはあっても、それと「自分の足を晒す」ことは当たり前には結びつきません。
これは試しにそういう嗜好の人間が集まるところで話題を振ってみるとわかるのですが、自分が裸足になるのも興奮すると言うと、かなり奇妙なものを見る目で見られることになります。
根本的に、系統の違う刺激のようなのです。
しかし私の中では、幼稚園児の頃から裸足を見ることと裸足になることはセットであり、まったく同じノリで扱うべきものでした。
登り棒仮説
これが何に起因するかについては、一つ大きな仮説を立てることができています。
その頃、近所に住んでいて同じ幼稚園に通っている友達で、N井君という子がいたのですが、その子から次のようなことを教わっていたのです(注:表現はマイルドにしています)。
「棒に登ると、すごく気持ち良くなる」
そう、私は幼稚園の頃にすでに、友達経由でそういう行為を覚えていたのです。
そしてその手段は、身近にある様々な登り棒的オブジェクト――螺旋階段の柱とか、電灯とか、階段の手すりとか――に、裸足でしがみついて登り降りを繰り返すことでした。
まだ自分の手で直接刺激するという発想は身につけておらず、いちいちそういう手段を採っていたわけですね。
私はこの行為が、「裸足になること」に特別な意味を見出すきっかけになったのだと推測しています。
子供だった当時なりに、その行為には「あまり大っぴらにするものではない」という一種の禁忌性を感じていました。
つまり、裸足になってこっそり気持ち良くなる――そういう秘密の遊びだったわけです。
それが飛び火し、すでに持っていた他人の裸足への興味と結びつくかたちで、裸足になることそのものにも興奮を覚えるようになったのではないか。
私はそういう風に、当時起きたことを解釈しています。
小学校時代に本格化
さて、小学校に上がり、私のフェティシズムは一層具体的で激しいものになりました。
残念だったのは、私の通っていた小学校には「靴下を履かない」という風潮がほとんどなく、裸足で登校してくる生徒はほぼ皆無、プール授業のあと靴下を履かないまま過ごす生徒もほとんどいないという環境だったことです。
しかしそれでも私は、たまーにクラスの誰かが裸足になったときには、周囲にバレても構わないという勢いでそれをガン見し、そして自分は小学校生活の半分以上を、靴下を履かずに過ごしました。
思い出を飾る女子達
何人かの女子に対して、感謝のような思い入れがあります。
1~2年生のとき、何度か靴下を履かずに登校してきて、裸足で椅子に正座して足裏を見せてくれたりしたS藤さん。
同じく1~2年のとき、私と席が隣同士になり、私が組んでいた裸足の足先が引き出しを開ける邪魔をしてしまい「ごめん」と謝ったら、その足を不思議そうに見つめ、翌日靴下を履かずに登校してくるという素敵な行為に出てくれたS崎さん。
普段とても品行方正で、裸足になるなんてだらしないことは絶対にしないはずなのに、ただ一度だけ靴下を脱いだままの姿になり、音楽室での授業では貴重な足裏を存分に晒してくれたH本さん。
などなど。
中でももっとも思い出深いのは、5~6年生のときに同じクラスだったM屋さんでしょうか。
先程、靴下を履かない風潮がほとんどない学校だった旨を書きましたが、彼女に関しては例外的でした。
雨が強く降った日や、プールの後などの「自然と靴下を脱ぎっぱなしになれる機会」には結構な率で裸足になってくれたり、裸足で登校してきて途中で靴下を履く、というちょっと不思議な行為を見せてくれたりもしました。
彼女が印象深いのは、普段は上履きをきちんと履いて絶対に脱いだりしないのに、靴下を履いていないときは急に足癖が悪くなって、上履きを脱ぎ散らかし、ほとんど裸足で過ごしていたことです。
私の中で「授業中裸足になる女子」といえば人生において第一に彼女であり、密かに裸足の女王と呼んでいました。
ある強い雨の日、教室に着いてランドセルの中身を机に移したあと、「まあ彼女のことだから脱いでいるだろう」と信じて席を見たら、そこに当然の顔をして裸足で椅子の上に体育座りしているM屋さんがいたときには、一種の感動がありましたね。
複雑な心理で為された行為
……といった「良き思い出」はあるのですが、これらはあくまで、私の小学校においてはたまに起きた裸足イベント。
小学校時代の私のメインの楽しみは、自分が授業中に上履きを脱いで裸足になることでした。
先述した通り、裸足になることに禁忌性と興奮を覚える性質をすでに備えていたわけですが、それによって裸足になることに抵抗感を持つのではなく、逆に「ドキドキしながら晒していく」方向に突き進んだのです。
その心理はとても複雑なものでした。
まず、裸足になることを「授業中に実行する」ことへのこだわりが凄くありました。
放課後に裸足になって歩き回るとか、運動会のようなイベントでどうこうするといったことにはあまり興味を示さず、教室内で皆が真面目にしている授業中に裸足を晒すことにこだわっていたのです。
恐らくこれは禁忌性と関連していたのでしょう。「こっそりやるべき行為」がどんな状況でもっとも禁忌性を増すかといったら、それは「真面目であるべき状況」です。
当時の私は学校というシステムに従順でしたから、授業は真面目にきちんと受けるべき、というのを疑いなく受け入れていました。
だからこそ、その時間に裸足になることに興奮を覚えたのです。
果たして自分の裸足を見られたいのか、見られたくないのか、どっちだったのかというのも、一概には言えないところだったりします。
当時の私の心境としては、基本的には誰にも見つからずにやり通したい、というのがあったと思います。
でも同時に、裸足になって行う様々なアクションについて、「もし誰かが今こちらを見たら、とっさには誤魔化せない」度合いをランク付けし、隙を見て高ランクの行為に挑む、というようなこともやっていました。
たとえば、上履きを脱いでその上に裸足を乗せるだけなら初歩。でも脱いだ上履きを席の枠の外に脱ぎ捨てて、すぐには履けない&上履きを誰かに見られやすい状況にするのは高ランク。といった具合です。
これらは明らかに、見られる興奮を前提としたものだったように思えます。
変な目で見られなかったのは幸運だった
幼稚園時代に芽生えたものは、小学校時代に(良くも悪くも)完全に花開きました。
今にして思うと、私がしょっちゅう裸足になっていることは、少なくない数のクラスメートにバレていたでしょうね。
何だかんだで、見境なく脱ぎ散らかしていましたし、何度も述べたように、靴下を履いていないというだけでも珍しい学校でしたから……。
それでも何か直接からかわれたり、変なあだ名を付けられたりしなかったのは、ひとえに皆、足元がどうこうなっていることに対して、特に興味を持たなかったからでしょう。
まあ、そんなものなのだと思います。
――今回の記事はあくまで「目覚め」の部分について語ろうという主旨なので、この辺にしておきましょうか。
その後
まあ、幼稚園、小学校と、私はだいたいこんな感じで、己のフェティシズムを目覚めさせ、育ててきた次第です。
ちなみに、自分が裸足になることへの興味はその後、時が経つにつれてだんだん薄れていき、今ではそういう行為に出ることはほとんどなくなりました。
言うなれば「見る専」の方向に変わってきたということですね。
もちろん今でも根っこは残っているので、両刀使いに立ち戻ることはできると思うのですが、「授業中」というあのシチュエーションとはもう縁が切れているので、あの頃のようなものを味わうことはもうできないのかなと思っています。
それでも、こんな風に裸足を晒すとゾクゾクしますが……。
この記事がOKであることを願います
だいぶ長い記事になってしまいました。
この記事が想定している読者は2タイプあって、それぞれについて伝えたいことを決めて書きました。
まずは同好の士に対して。この嗜好は奥深いもので、こういうことを考えて動いている奴もいたんですよ、というのを示したかった。
それから、まったく足に興味のない人に対して。引くかもしれませんが、こういう世界もあるんですよ、というのをなるべく丁寧に紹介したかった。
これらが上手く行っていれば、書いた甲斐があったというものですが、いかがでしょうか。
フェティシズムをテーマにすることについて、Googleアドセンス的に問題がないようなのであれば、言葉にしたいことはまだまだたくさんあるので、またの機会に記事にしたいと思います。
「裸足」カテゴリを辿っていただければ、裸足に関する作品の感想や体験談の記事が一覧表示される予定ですので、よろしければそれらもお読みいただけると嬉しいです。
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