天国的底辺

二次元、創作、裸足、資格試験、その他諸々についての思索で構成されたブログ

結論を維持するために根拠をすげ替える人が多数派なんですよね

 今日は結論と根拠の関係が巷ではどのようなものになっているかについて、常日頃の観察から生まれた雑感を書いていきたいと思います。

 

 

とにかく根拠が軽んじられる

 一言で表現してしまうと、まあタイトルの通りなのですが……。

「これが答だ! なぜならこうだからだ!」と強弁していた人が、その根拠の部分に突っ込まれたとき、本来その人が採るべき道は、次の2つのどちらかです。

 その突っ込みに再反論するか、あるいは答として述べた主張を引っ込めるか。

 ところが、そのように動く人はびっくりするくらい少ないんですよね。

 多くの場合、結論部分はそのまま保ち続け、その根拠についてさっきまでとはべつのことを言い出すのです。

 それならまだ良いほうで、もっと酷いパターンになると、怒り出したり煽り出したりしてその場を乗り切ろうとする。

 

知的レベルに依らない行為

 今これを書いている私の頭の中には、主にネットでの人々のやり取りが浮かんでいます。

 まあ、オフラインではあまり個人としての議論を目の当たりにする機会はありませんからね。

 ……と言うと、あなたの頭には次のような指摘が浮かぶかもしれません。

「それって、年齢や学歴の低い人達のやり取りばかり見ているだけじゃないの?」

 

 それが、そうでもないんですよね。

 ちゃんとした大学を出て、ちゃんと歳を重ねたはずの人達の展開する議論(それを本当に議論と言ってしまっていいのかという疑問もありますが、便宜上議論と呼びます)においても、そういうことは頻繁に見かけるのです。

 どうやら知的訓練の問題ではないらしい。

 

間違いなく多数派

 昔はこの辺りのことについて、次のように考えていました。

「ネットでは『自分の中にあるものをとにかく吐き出したい人』が目立つからそのようなものばかり観測してしまうのであって、まああくまでそういう困った人もいるよね、という話でしかないだろう」

 ところがそれから長い時が経ち、その途中でTwitterなる、やたら日本人の気質に適したコミュニケーションサービスが生まれ、ネットでやり取りすることが一部の人間の行為ではなくなった中でそれらを眺めているうちに、だんだんと考えが変わってきたわけです。

 

 あれ、もしかして、意見の食い違う人間同士の会話のほとんどがソレ系じゃね?

 

なぜ根拠はないがしろにされるのか

 この現象が示しているのは何か。

 恐らくこういうことではないかと私は推測します。

 この世の中、「何が答なのかを知りたい人」の割合はそんなに多くなくて、だいたいの人は世界のカタチを自分で好きなように決めたがっている。

 そんな彼らにとって議論とは、自分の頭の中にある世界のカタチを相手に知らしめ、飲み込ませようとするプロセスに他ならない。

 

 その場合、「結論」というのは「根拠から導き出されたもの」ではそもそもないんですよね。

 その人の世界観と「お気持ち」からポンと生まれたものなのです。

 大前提として、結論が根拠の上に積み重なっていない。

 そこでは根拠とは、自分の愛する結論をもっともらしく飾り立てるための演出でしかないわけです。

 

 だから、根拠に突っ込まれたときに多くの人が思うのは、「やばい、結論が揺らいだ」ではなく「あれ、どうやら見せ方が上手くなかったらしい」なんですね。

 そこで、照明の角度を変えるように、カメラの構図を変えるように、根拠をべつのものにすげ替えて、同じ結論を「再提出」するのでしょう。

 

 人々が突っ込まれてべつの根拠を持ち出してくるときの、あのあっけらかんとした感じ。

 苦し紛れにこういう行動に出ていますという自覚を微塵も感じさせない、あの堂々とした振る舞い。

 それらはたぶん、根拠の意味が本来の場所から遠く離れてしまっていることから生まれたものなのです。

 

 世間とは、そんな風にできている。

 

法の番人だって似たようなもの

 でもよく考えてみると、結論と根拠のこういった関係は、無責任な巷の対話に留まりません。

 私は法律資格を取るための勉強をしているのですが、例えば判例を追いかけていると、まず最高裁の意志として「どうしてもこの結論で行きたい」というのがあり、それを押し通すために法律を類推適用したり、判旨においてかなり無茶な論法を持ち出したりしているケースがよくあります。

 公明正大であるべき法廷においてもそんな調子なのですから、世俗に生きる我々が根拠から結論を導き出していなくても、特におかしなことはないのかもしれません。

 

 むしろ、何が答なのか知りたいという欲求に基づき、根拠を積み上げて結論へと進んでいくというプロセスは、科学者ないしその気質を持った人に限定された特殊性癖、くらいに考えたほうがいいのかもしれない――そんな気もしてきます。

 大衆の心を動かすのも、根拠(データ)ではなく、ワードセンスと抑揚だったりしますからね。

 

おわりに

 ……特にオチが浮かばなかったので、この辺にしておきたいと思います。

 今回のこの記事にセルフ突っ込みをするとしたら、「ところでお前はどういう立場でコレを書いてるんだ?」というところでしょうか。

 私はべつに科学者ではないのですが、昔からこと議論めいた流れになった場合には「根拠→結論」の順序にすごいこだわりがあって、ここがないがしろにされがちなことがどうしても気に入らない、そんないち庶民だったりします。

 

 まあ、そういう性癖の人間の「生きにくさ」のようなものをブログ記事にしたのだと捉えていただければ幸いです。

 

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