今日は天才と学習の関係についてちょろっと考えてみたいと思います。
実のところリアル生活で「まさに天才!」という人と接した経験はないのですが、まあ、そこは小理屈と想像で埋めていくということで。
天才と、彼らに期待されること
良くも悪くも人間の能力には圧倒的格差があります。
その上澄みに位置する人達のことを、我々は天才と呼んでいます。
常人がもがき苦しみながら何とかこなしている領域を軽々と駆け抜け、限られた人間だけが見ることのできる景色を日常的に見て生きている人達。
好むと好まざるとにかかわらず、我々の住む世界は、天才達が扉を開き、残った凡人達がせっせと道を舗装する、というような形で前進しています。
天才にもいろいろなポジションがあります。
最前線のプレーヤーとしての立場に専念して、とにかく個の力で驀進し続けるタイプが、イメージ的には一番最初に来るのではないかと思いますが、それ以外にも彼らには、周囲から期待される大きな役割があります。
それは、天才性から生まれるものを、凡人達に伝授すること。
つまり、教えることです。
天才だから何でもできるわけではない
しかし、単純に「すごい天才から教われば、すごい勢いでこちらの実力が伸びる」という風にはいきません。
野球の世界に「名選手、名監督にあらず」という言葉があります。
これは理屈ではなく、選手時代に優れた成績を残した人物が、それに比例して監督として優れた結果を残すわけではないという現実的なデータに由来する言葉でしょう。
まあ野球の場合は、そのとき率いていた戦力に大きく左右されるものですから、監督個人の能力をチーム成績から正確に弾き出すのが難しくもあり、ちょっと紛れの多い例かもしれません。
しかし、ここには一定の説得力があります。
天才の天才たる所以
そもそも天才の天才性とはどのようなものでしょうか。
これは各々の世界観次第で微妙に違ってくるものだと思うのですが、私としては、天才性とは次のようなものだと考えています。
「常人が100の理屈と反復を積み上げて習得するものを、何となくで習得する力」
これによって、天才の能力は2つの特徴を見せることになります。
一つは、能力の上昇速度の速さ。
もう一つは、能力の上限の高さ。
つまり、天才は凡人から見ると「過程でいろいろなものをすっ飛ばす」習性がある。
囲碁や将棋においても、無数にあり得る未来の中から直観で「これ」という手を絞っていくことが、プロの間ではとても大切な能力とされています。
この直観を有し、自在に使いこなして「過程をすっ飛ばす」ところが、凡人との最も大きな違いと言えるのではないでしょうか。
天才が抱える問題
そして、まさにここで、問題が発生するのです。
天才はしばしば、己の「すっ飛ばす能力」ゆえに、常人に対して「何かが成功するまでのプロセス」を順を追って説明することができないという問題です。
かつてイチローさんは、「僕は天才ではない。なぜならどうしてヒットを打てたか説明できるから」という言葉を残しましたが、つまりそういうことでしょう。
イチローさんは、プロセス(ルーチンワークと言ってもいい)作りとそれを執拗なまでに繰り返すことの天才であり、その意味では、真っ先に想像されるような種類の天才とは違ったということになります。
対極に位置しているのが、野球なら長嶋茂雄さんでしょうか。
話を戻します。
そのようなわけで、天才は己がどうして「できる」のかを凡人に伝えることができないことが多い。
これはすなわち、再現性(まったく同等とまでは行かずとも、ある程度までのレベルに相手を引き上げる再現性)を作り出すことが、天才達自身にはあまり期待できないということです。
我々は何かを学ぶときについ、凄まじい結果を残す天才に師事し、そのパフォーマンスに追いつけ追い越せの日々を送りたいと考えてしまいます。
でも、たぶんほとんどの場合、天才は一人で勝手に凄いまま突っ走り続けるでしょう。
我々がそのおこぼれを頂戴できることは、あまり期待できません。
別種の天才を探そう
そこで福音となるのは、まったくべつの才能です。
まず、天才を分析し、そこから本人達にもわかっていないプロセスを導き出し、それを凡人に再現可能なかたちで段階化し、メソッドとしてまとめる――そういう才能があります。
これを持った人達が、天才と凡人を橋渡しするものを提供してくれるのです。
凡人を天才にすることは無理かもしれない。しかし天才から抽出したものを利用することで、凡人のポテンシャルをより引き上げることはできる。そういうコンセプトですね。
そしてさらに、そういったメソッドを、目の前の凡人一人ひとりにどういうタイミングでどのように施すのが最適なのか、それを見極める能力というものもあり、やはりこの分野にもそれに特化した天才がいます。
凡人は、このタイプの天才から学ぶのがもっとも効率的なのです。
もちろん天才の習性はここにも見出すことができて、彼らは自分が何故そんなに「凡人一人ひとりを見極めて教えるのが上手いのか」をきちんと説明することはできないだろうと思います。
しかしここでは、それを説明してくれなくても問題はない。
つまりそういうことです。
我々はしばしば近づくべき天才を間違える
私は今、司法書士試験の勉強を続けていますが、勉強法の世界にも、こういった問題はあちこちに転がっています。
東大を主席で卒業した某氏による「教科書7回読み勉強法」。
東大医学部の学生にして司法試験も突破した某氏による「シンプルな勉強法」。
どちらも書籍化され、ベストセラーとなっている。
我々は、猛烈なパフォーマンスを発揮する人物のやり方をつい崇拝してしまい、それを真似することで自分のパフォーマンスも上げることができるのではないかと期待してしまいますが、残念ながらそう簡単にはいきません。
上記2例の場合、その内容は科学的にはあまり効率が良いとはされていなかったりします。
つまり、著者がそのスペックをフル稼働させて、あまり効率のよくないやり方にもかかわらず力技で結果を出した話を読まされるだけなわけですね。
まとめ
繰り返します。
我々が接近するべきは、ずば抜けたパフォーマンスを発揮する天才を分析し、その仕組みを体系化することに長けた天才が作り上げたメソッドを、目の前の人間に絶妙に施してその能力を伸ばすことに長けた天才なのです。
ややこしいですが、相手を間違えてはいけません。
お互い、天才には正しくすがっていきましょう。