天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

無敵の人の暴走に「消えたきゃ一人で消えろ」とか言うと暴走増えますよ

 本日、神奈川県川崎市で、スクールバスを待っていた小学生の児童らが、市内在住の51歳とみられる包丁を持った男性に襲われ、亡くなられた方、そして多数の負傷者が出るという事件がありました。

 容疑者となるはずだった男性もまた、自分自身の首を刺して搬送先の病院でお亡くなりに。事件の全容を究明することは困難となりました。

 

 まずは亡くなられた被害者の方々のご冥福をお祈りいたします。

 その上で、多くの人々から想定されている犯人像について、私なりの見解を少し書いてみたいと思います。

 

 

無敵の人

 加害者の男性について、ネットでは、いわゆる「無敵の人」だったのだろうという推測がなされています。

「無敵の人」というネットスラングをご存知ない方は、こちらのリンクをご参照ください。

 

 無敵の人は、その社会的地位の低さゆえに、どうしてもぞんざいに扱われてしまいます。

 そんな彼らがこのような事件を起こした場合、必然的にそこには一切の同情の余地は生まれず、純度100%の社会的害悪として批判されることになります。

 

 その流れに逆らうつもりは私にはありません。

 どう考えてもあってはならない凶悪犯罪であり、我々は何がどうなろうと自分の人生をそちらに向かわせるべきではない

 それができなかった時点で、加害者の男性は明らかに「失敗した」のであり、その点に正当性と呼べるものはただのひとかけらも存在しない事は明白です。

 批判されても仕方がない。

 

妥当ではない2つの言葉

 ただし、その批判の内容については、2つほど「これはNGだろう」と思うものがありました。

 ここではそれらについて言及していきたいと思います。

 

その1:「この世から消えたきゃ一人で消えろ」

 このような発言をしている人が、ネットにおいて何人も見つけることができたのですが、率直に言ってこれは危険な一言だと思います。

 というのも、無敵の人と言うのはその立場ゆえに猛烈な孤独感と、そこから来る「社会の幸せそうな人達」への憎悪を募らせており、さながら「お前だけならべつに消えても何の悪影響もないけどね」と言いたげな上記の発言は、その募った気持ちをこれ以上ない形で刺激するからです。

 

 こういう発言が溢れることで、無敵な人たちはなおのこと、自分の人生を終わらせたいと思ったときに周囲の何者かを道連れにしたいと思うようになる。

 発言者たちにそのつもりはまったくないでしょうが、事実上この言葉は、同じような犯罪がこれからも起こることを焚き付けているのです。

「押すなよ、押すなよ!」みたいなものです。

 

 いわゆる「普通の人達」が無敵の人の抱く孤独感に対して手を差し伸べる気になるのは難しいことかもしれません。

 皆それぞれ日々の生活に苦労しているわけで、極端な自己責任論者でなくとも、「そんなの自分で何とかしろ」という意見を持っている人は少なくないでしょう。

 しかしその眼差しが、無敵の人を追い詰めているのだとしたら? そしてそこから来る言葉を尖らせることが、最後の一線を越えてしまうトリガーになるのだとしたら?

 

 人々は「自分たちの平和を守るために」もう少し優しい眼差しを持つべきなのではないでしょうか。

 

その2:「なぜ弱い者を狙うんだ。どうせ捨て身なら強い者に行け」

 この発言は、危険とまでは言いませんが、わかっていないなあとは思います。

 

 捨て身で凶行に及ぶ無敵の人の心境を考えてみますと、それはまさに一世一代のイベントなわけです。

 そしてこれが肝心なことですが、彼らがそこで行いたがっているのはチャレンジではありません

 できるかできないか分からないことを命がけでやってみよう、ではない。

 そうではなくて、一度きりのチャンスで、確実に、最後の一花を咲かせたいと思っているのです。

 

 だから強い者に挑むわけがない。

 例えば、厳重な護衛のついた要人に襲いかかるような真似をしたら、まず間違いなく失敗することでしょう。

 そこまで行かずとも、自分の戦闘能力では反撃されたり逃走されたりする可能性のある相手では、やはり目的は達成しにくいだろうし、それでは燃え尽きることはできない。

 

 彼らの結末は間違いなくバッドエンドですが、バッドエンドの中にも良いバッドエンドと悪いバッドエンドがあるのです。

 彼らの人生の最後にして最大の「見せ場」において、悪いバッドエンドを選ぶわけにはいかない。

 それがすなわち、より弱い者にターゲットを絞るという行為の本質なのではないでしょうか。

 

 さらに付け加えるならば、楽しそうにスクールバスで学校に通う児童は、無敵の人にとって純粋に弱い者であるとは言えないところがあります。

 なぜなら(少なくとも無敵の人達よりは)恵まれているから。

 児童らが持っているリソース、ポテンシャルのことを思えば、ある意味では彼らに襲いかかる事は、強者に襲いかかることであると意味づけることも可能なのではないかと思います。

 より確実に仕留めやすい強者。これ以上格好のターゲットはないと言えるでしょう。

 

 以上、批判の中で抵抗感のあった2つの言葉について、反論というわけではありませんが、私なりの意見を述べさせていただきました。

 

不幸な者を作るべきではない

 念を押しておきますが、現時点で具体的な犯人像はわかっていません。従って、無敵の人云々はすべて推測であり、上記で私が行ったのは、そこから広がったものに対する言及に過ぎません。

 しかしこういうことを考えるたびに、我々は不幸になってはいけないのだなということを強く感じます。

 不幸になると言う事は、自分一人の問題にとどまらず、それを周りに伝染させてしまうという困った事態にも簡単に発展してしまうのです。

 

 あまり全体主義的なことを言うつもりはありませんが、誰か一人が極端に不幸になることは、全員が不幸の種を背負い込むことでもある。

 我々は豊かであり続けるために、脱落者をできる限り出すべきではないのです。

 脱落者は綻びです。そこからいろんなものが瓦解する可能性がある。

 例えば今回の事件もその一つの表れであった……のかもしれない。

 

 ともあれ痛ましい事件でした。

 事件の再発防止のために、これからいろいろな議論が出てくるのだと思いますが、とりあえず我々が現時点でできるのは、次のようなことだと思います。

「いっときの義憤で刺激的な言葉を選び、加害者を増やさないこと」

 

 お互い、加害者にも被害者にもならないよう、できるだけ注意して生きていきましょう。