なかなか後悔の多い人生を送っておりまして、後悔道のようなものがあったらすぐに黒帯とか免許皆伝とかイケるのではないかと自負しております。
今日はそんなわけで、後悔についてのお話です。
後悔のメカニズム
まあ私ほどではないにせよ(しつこい)、皆さん生きていればそれなりに後悔というものをしたことはあるのではないかと思います。
その本質は、判断ミスですね。
あのときあんな判断をしなければ、後々こんなことにならなかったのに――という形を、多くの場合はとります。
判断をさらに細分化していくなら、作為と不作為の2種類があるでしょうか。
「あのときあれをすべきだった」
「あのときあれをすべきではなかった」
これは一つの意思決定の中に同時に含まれることもあります。たとえば夏休みの宿題をサボり続けて最終日になってしまったときに抱くのは、「少しずつやっておくべきだった」であると同時に「毎日毎日、遊んでばかりいるべきではなかった」でもある。
いずれにしろ、後悔とは過去の選択に対する「あれは間違いだった」という低評価から生まれるものなわけです。
格言めいた2つの台詞を分析してみる
そしてこのあたりについて、巷ではよくこんな言葉に出くわすことがあります。
「やらずに後悔するよりは、やって後悔したほうがいい」
「自分で決めたことなら後悔はしない」
例によって例のごとく、こういう格言めいた言葉には、良く言えば解釈の必要性、悪く言えばツッコミどころが存在します。
ちょっとそれを深掘りしていきましょう。
その1:「やらずに後悔するよりは、やって後悔したほうがいい」
端的に言ってしまえば、これは一種の認知的不協和なのだろうと私は思います。
まず、やらずに後悔するというのは、不作為によって現状維持を得た側から、作為によって得られた「かもしれない」成功を想うときに発生する、判断ミス認定のことです。
前提として、維持された現状に満足していないというのがある。それをエネルギー源として、自分に起こり得たすべての可能性のうち、上位に位置するものを見据えたときに生まれる感情が、「やらずに後悔」の本質です。
そこでは、実際にその成功の確率がどのくらいあったのか、やってみて失敗したらどのような損失を被っていたのか、といったことはいったん無視されます。
それに対して、やって後悔するというのは、挑戦したが失敗し、結果として何もしなかったときより多くのものを失ってしまったときに発生する、判断ミス認定です。
こちらもやはり前提として、現状への不満と、そこから来る「べつの可能性への憧れ」がある。現状維持を選んでおけば持ち続けていられたであろうものへの欲求が、その本質と言えるでしょう。
そこでは、現状維持を選んでいたらジリ貧が待っていたであろう可能性などが、やはり無視されることになります。
実際問題としては、我々の人生、やらずに後悔する可能性とその大きさ、やって後悔する可能性とその大きさ、これはどちらも不定で、一方が他方より常に良い(あるいはマシ)ということはありません。
それなのに何故、「やらずに後悔するよりは、やって後悔したほうがいい」という優劣関係がしばしば語られるのかといえば、これは単純に「やらないという選択をする人のほうが多いから」なのでしょう。
つまり、まず大多数がよってたかって「自分が選ばなかったほうに何かより良いものが待っていたはずなのだ」という無根拠な後悔を抱いている。
そこに、一部の「行動して成功した人達」のサクセスストーリーが舞い込んでくる。
「いいなあ。自分も何かやっていれば、あんな風に良い生活ができるようになっていたのかもしれないな」
……そんな風にして、「やって後悔」が無責任に軽くなっていき、この言葉に繋がっているのでしょう。
その2:「自分で決めたことなら後悔はしない」
この言葉には、根本的におかしなところがあります。
そもそも我々は、すべての選択を言われるまでもなく自分で決めているのです。
例えば、あることを実行するかしないかという選択肢があるとしましょう。
そしてそれを実行することについて、周囲の人間からいろいろと一面的な魅力を聞かされ、一時的に舞い上がり、流されるようにそれを選択したとしましょう。
それだって要するに、自分で決めて動いているのです。
論理的に言って、世の中に「自分で決めていない」選択はありません。
あるのは選択肢の幅だけ。
その選択肢の幅すらも、過去の自分の選択によって変動した結果であったりするわけですから、どこまでいっても自分の意思決定で溢れているのです。
では、「自分で決めたことなら後悔はしない」とは、何を指しているのか?
これは要するに、自分で選択する際に、判断材料をどこまで自力で集めることができていたかを言い表しているのだというのが、私の見解です。
つまりこの言葉が想定している「自分で決めなかった」というのは、判断材料の多くを自ら吟味し損ねたまま決めてしまったこと、を指しているわけですね。
多少乱暴に言うなら、準備不足の危険性をカッコよく指摘したものなのです。
しかしこれも実際にはとても微妙なもので、判断材料を自分で吟味したからといって、それが「より入念に準備したこと」になるとは限りません。
自分より確かな判断のできる人間に丸投げしてしまったほうが、より良い選択をすることができた、というようなことも、しばしば起こり得るのです。
結局、この言葉の本質は次のようなものなのだと私は思います。
「自力をたくさん使うと『やりきった感』が生まれるので、結果として悪いことが起きても『こうしなければもっと悪い結果だったろう』とつい考えてしまう。その錯覚によって、目の前の悪い結果に無理やりな納得感が生まれる」
結論:これらは癒やしの言葉
詰まるところ、どちらの言葉も、別の世界線を都合よく想像して、それとの比較で自分の感情を落ち着かせるためのものに過ぎない、というのが私の意見ですね。
それが悪いことだとは言いません。我々にはこういう種類の言葉が必要なのです。
単体で見ると後ろ向きだったり情けなかったりするとしても、そうやって考えていかないと、人生やっていけない。
いわば回復アイテムみたいなものでしょう。
ただ、今回書いてきたようなところに一切思考を回さず、他人に何かを押しつける用途でこれらの言葉を使う人には、個人的に苛立つものがあります。
「自分で決めたことだから後悔はない!」はまあ毅然としていて良しとしても、「自分で決めたことなんだから後悔するな!」と他人に迫りだしたら、それは違うだろうということです。
後悔は無駄
もし後悔に関する「正確な人生訓」を挙げるなら、次のようになるでしょうか。
「後悔して当たり前だけど、そこにあまり意味はない」
私などはなかなかドライになれず、冒頭で述べたとおり後悔してばかりなのですが、そこに意味はないよな、というのは自分でもわかっています。
まあ、自然体でタフになりたいところですね。