天国的底辺

二次元、創作、裸足、その他諸々についての思索で構成されたブログ

友達の定義が謎な人達

 今日は、友達という言葉の奇妙な展開について、思うところを少し書いていこうと思います。

 

 

友達はいません

 これはあなたがどの世代を生きているかによって意味が変わってくる質問だと思うのですが――あなたには今、何人くらい友達がいますか?

 私は0人です。

 寂しいですねと哀れまれようが何を言われようが、私には友達というものが現在1人もいない。

 

 小学生の頃までには、私にも一応、心から楽しめる遊び相手というものがいました。

 でも中学校に入って以降の人生では、およそ友達と呼べるものを作った事はありません。

 そのことですごく困った時期もあるのですが、それを通り越して今に至るまでは、不自由を感じた事はありません。

 良くも悪くも、友達がいないという状態に安定感が出てしまったのですね。

 人生、一寸先は闇と言いますが、現在の自分を客観的に眺めてみる限り、恐らくここからは生涯、友達というものを作ることはできないのではないかと思います。

 

世間は友人関係で満ちている……が

 私のような人は、世間でどれくらいいるのでしょうか?

 

 あまり積極的に他人の人間関係を観測したことは無いのですが、その狭い範囲で言うならば、ほとんどの人は多かれ少なかれ友達といものを持っているように思います。

 もちろんその数は人によってものすごく差があり、いわゆる「誰とでも友達になれる人」から「数々の条件が整わないと親しい間柄になれない人」人まで、実に多種多様です。

 しかし大抵の場合、いるかいないかで言ったら、いる。

 

 そんなわけで、誰かが友達の話をしているのを見聞きすることは頻繁にあるわけですが、そこで私がいつも疑問に思っていることがあります。

 それは、ある1人の友達に対して、恒常的に嫌っているような発言をする人が、意外と多くいるということです。

 

嫌いな友達、という概念

 基本的に友達というのは、自分の気質にしっくり来る相手を、自分のために選ぶものだと思います。

 もちろん関わっていればいろいろな出来事が起こるものですから、どんなに気の合う相手であっても、鬱陶しくしく思う時間もあれば、憎らしく思う時間もあるでしょう。

 しかしそれらは、「基本的にはその相手と仲良くすることができる」と言う前提の上で展開する、一時的なものであるはずです。

 ……少なくとも私は、それが自然な形だと思って生きてきました。

 

 ところがネットを見ていると、その「基本的には仲が良い」と言う前提がない友達関係というものが存在することを、観測できてしまうことがあるのです。

 つまり、ある1人の「友達」に対して、一時的に対立しているのではなく、いつもいつもいつもいつもその言動に対して苛立ち、不満をぶちまけている

 そういう人がいるのです。それも決して珍しいケースではなく、そこそこの頻度で目にすることができる。

 

 つまり世の中には、「嫌いな友達」と言う概念が存在し、大手を振って歩いているということになるのです。

 

 そこで私などは当初、とても不思議に思ったわけです。

 そういう人たちにとっての友達の定義とは、一体どのようなものなのだろうと。

 

 少なくとも彼らの中で、自分と気が合うという条件は、定義としてはとても弱いものか、あるいは意味をなさないものであると思われます。

 そこからして根本的に私の定義とは異なるので、どうしても同調することができないのですが、そのように考えなければ成り立たない言動を、彼らはとっている。

 

私はこう解釈した

 私の推測は、次のようなものでした。

 彼らは恐らく、自分のいる環境の文脈上、親しくしておくのが筋であるすべての相手を、その環境から離れた時間においても、便宜的に友達と呼び続けているのではないか?

 

 例えば、どこかのグループに属さなければ、みんなに爪弾きにされてしまうというような強迫観念があり、それに駆られて、気が合うわけでもない人間を含んだ集団に身を寄せる。

 そしてその全員に対して、一応「友達」と言うラベルを貼って、表向きは無難に振る舞っている。

 しかし無難に振る舞っていればいるほど積もる不満というものはあり、それがネット等では悪口雑言として外に漏れ出てしまう……。

 

 状況としては理解できます。

 気の合わない相手と、一応仲良くしておかなければならないというタスクはとても日常的なもので、多くの人が味わうところではあります。

 でも私がわからないのは、そこに便宜的に貼り付けた「友達」と言うラベルを、そのグループから離れたときにも、まるで自分には解けない呪いのように使い続けているところです。

 

 観察する限り、使っている本人達には、そこに疑問を抱いたり、違和感を覚えたりしている様子はありません。

 特に不都合もないので、とりあえず友達と言っておけばいいや、という感じなのかもしれません。

 しかし、はたでそれを眺めている友達ゼロの私には、それがしっくり来ない。

  

自縄自縛の証

 この辺りの私の推測が正しいのだとすれば、言葉は悪いのですが、生きることに勝手に制約を作り、勝手に追い込まれた結果、既存の言葉に悪性のオーラをまとわせてしまった、という、とても歪んだ状態に感じられるのです。

 

 確かに、それが学校だろうが大人の社会だろうが、どこにも属していないということで不利を受けることはよくあります。

 それを回避するためにどこかに所属しておくのは、処世術としては間違っているわけではありません。

 ただ私が物申したいのは、その処世術の副産物に過ぎない「設定上の友達」を、そこから解き放たれた時間においてもなお友達と呼んでしまう、その意識です。

 

 余計なお世話なのですが、少なくともネットをやっているときくらいは解放してあげたいな、と思う。

 そしてそれと同じくらい、友達という言葉を正常なものに保っておいてくれないかな、と言う願望もあったりするわけです。

 

ぴったり当てはまる言葉が要る

 そのために、「友達」に代わる何かとても使いやすい新しい言葉が必要だと思うのです。

 ちょっと考えてみたのですが、既存の言葉はどれもニュアンスがちょっと異なるか、あるいは堅苦しかったり長かったりして日常的に使いにくい。

 ここはやはり、新しい言葉が若者の中から生み出されるべきではないかと。

 

 ……などということを、Twitterで「友達」を猛烈にdisっている人を見ながら考えてしまいました。

 

生きやすくするために

 世の中を見渡してみると、こと人間関係の窮屈さに関しては、多くの場合において、苦しむ側と苦しめる側が同一であったりします。

 気に入らなくてたまらない相手のことを、そこから離れたネットの上でまで友達と呼び続けるような人は、恐らく自分を「困らされている側」に位置づけているのでしょうが、実はそこにある窮屈さを作り出すことに加担する側でもあったりするわけです。

 

 その辺りに整理をつける意味でも、何か専用の呼び方はないかなあと漠然と思う日々なのであります。

 友達のまったくいない「寂しい」人間として。