今日は、様々な分野において「成功するために才能は必要ない」という主張がしばしば見られることについて、私なりの意見を書いていきたいと思います。
LEC司法書士2013年向け15ヶ月コース春生
7年ほど前、私はLECという資格予備校で、司法書士試験講座の15ヶ月コース(通信)を受講しました。
法律に関してはまったくの初心者で、文字通りゼロから学ぶ体験だったのですが、とりあえず最後まで続けることができました。
まあ結果的に初年度の本試験の成績は悲惨なものだったのですが、そもそも最後まで受講しきれる者が半分もいないと言われる司法書士試験の講座を完走しただけでも、マシなほうではあったのだろうなと思っています。
その講座の初回の講義で、講師の方が次のようなことを言ったのを、未だに覚えています。
「司法試験はお化けですが、司法書士試験はそこまでではありません。確かに簡単ではないし、勉強を続けていく中で必ずいろいろな思いを抱くことになると思いますが、しっかり勉強すれば受かる試験です」
努力した凡人が成功できる?
しっかり勉強すれば受かる試験。
これは司法書士試験業界では、LECに限らずどこでも語られる売り文句です。
もうちょっと別の角度からの言葉も付け足すと、だいたいこんな風になるでしょうか。
「司法書士試験は、努力した凡人が受かる試験である。特別な知能の高さや法的センスは必要ない。合格率は3~4%と厳しいが、とにかく尋常でない量の勉強を重ねた者から受かっていくのだ。そこには持って生まれた頭の良さはほとんど関係ない」
率直に言って、これは「嘘」だよなというのが私の認識です。
司法書士試験において頭に正確に叩き込まなければならない情報の量は、人間の限界をギリギリ超えるくらいのレベルにあり、その中で受験生は皆、取りこぼしがいかに少ないかを競い合っている。
そんな世界で、知能の高さやセンスに出番がないはずがない。
俗な言い方になりますが、それらが必要ないというのは、箸にも棒にもかからない者をも顧客として獲得したい予備校側の、定番化した「設定」なのでしょう。
彼らにこれができるのは、すぐ上に司法試験という頂点があるからです。
あちらを引き合いに出すことで、「あっちは才能ある奴しか無理だけど、こっちはあなたでも何とかなるよ」という表現がもっともらしくなるわけですね。
別の場所では逆の立場だった
面白かったのは、後に行政書士試験の勉強をしていた身内(LECではないところを使っていました)から、こんな話を聞いたことです。
「行政書士試験の講座では、司法書士試験とは違って特別な才能は必要ないと言っていた」
そう、行政書士試験においてもまた、同じようなセールストークは存在しており、そこでは司法書士試験こそが「一つ上の特別な存在」として引き合いに出されていたわけです。
結局、本当に特別な知能の高さやセンスを必要としないボーダーラインはどこにあるのか。
それを計測する手段があるなら是非確かめてみたいものですが、残念ながら知能の高低やセンスの有無はとても曖昧な概念であるため、「ここから先は『普通』では無理」というような正確なマップを作ることはできません。
ただ、とにかく言えるのは、「凡人による再現の可能性」は、広くノウハウを売るときには多くの場合で必要不可欠な口上だということですね。
とあるネットビジネスの経験
同じことを私は去年から今年にかけて、とあるネットビジネスで味わいました。
詳しいことはいずれ独立した記事にしたいと思っているのですが、その業界の有名なプレイヤーでありコンサルタント業務もしている方が、やはり同じようなことを言っていたのです。
「特別なセンスは必要ない。至ってシンプルなビジネスであり、リスクが無いとは言わないが、やる気さえあれば再現性はとても高いものだ」
もちろん、私はそれを鵜呑みにしたわけではありません。
しかし、そこそこ上手く行っている人間の割合がそこそこ高いことはわかっており、これなら才能のことはいったん頭の隅に追いやって挑戦してみるのも悪くないかもしれない、という考えになりました。
……結果的に大失敗し、ちょっとシャレにならないダメージを負うことになったのですが。
いやはやどこの世界もセンスと運が支配しているのだなあという現実が、骨身に染みた次第です。
まあ、繰り返しになりますが、このへんはいずれ記事にするつもりですので、そのときは是非読んでみてくださいね。
誰もが才能必須とわかっている分野
話を戻しますが、ここまで語ってきたような業界を思うと、例えばスポーツの世界などは実に「健全」ですよね。
特別な才能がなければ成功できないということが常識化しており、少なくともそこに関しては嘘がない。
コミュニティとしての体育会系には個人的に激しい苦手意識を持っているのですが、才能への素直な視点については、実にクリーンでフェアだなという印象があります。
それはそれで、危険性もあるんですけどね。
ビジネスや資格試験の世界が「凡人による再現性」で人を誘っているのに対して、スポーツや音楽の世界がそんなことをせずとも(才能の強力な介在を肯定しても)、成功を目指して集まってくる者に事欠かないのは、ひとえにその世界が単体で魅力的だから。
そしてその魅力が、自己評価を大きく狂わせるか、あるいは大胆に無視させるから。
そのことが人生を潰してしまうケースは大量にあり、屍の生産量ならこちらも負けていないのは忘れちゃいけないところです。
才能と居場所
才能を計測する機械のようなものがあったら、人は今よりかなり幸福になれるのではないか――というのは、本当につくづく思います。
何かを始める前に、その機械によるチェックを受ける。弾き出された数値が規定の値を超えているならば、成功の可能性がそれなりにあり、挑戦する価値がある。
逆にその値に達しない場合、時間の無駄になるから他の道に進むことをオススメします、となる。
そんなシステムです。
もちろん、そこで「値の高い者にその分野への参入を強制する」「値の低い者の参入を認めない」みたいな制度ができてしまったら、それはディストピア的なのですが……。
それと隣り合わせであるとわかっていても、欲しいんですよね。才能を計測する機械。
欲を言えば、何の才能があるかを探してくれる機能もあったら最高です。
『ぼくたちは勉強ができない』あたりの思想とは真っ向から反しますが、私は「何であれ才能を発揮できるところに身を置く」のが幸福だと考えるタイプですので。
まあ、要するに、何か才能があったら良かったのになあ、という話でありました……。