天国的底辺

二次元、創作、裸足、資格試験、その他諸々についての思索で構成されたブログ

年々一般化し脱臭されていくオタクという括りからこぼれ落ちる古典的オタク

 はい、私は古典的なオタクです。

 

 ……というお断りをまずしておいたところで、本題。

 昨日、次のような記事がTwitterで回ってきました。そこそこバズったようです。

 

markezine.jp

 

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オタクの一般化?

 詳しいことは記事を読んでいただきたいのですが、要点を言うと、最近の女子高生は自分を何かのオタクだと思っている人が多いし、オタクというものを肯定的に捉えている人も多い、という調査結果です。

 母集団は、フリマアプリ「ラクマ」利用者の女子高生1,230名。

 このネットリサーチに果たしてどこまで「世相の縮図」を期待できるかはわからないのですが、10年前にはあり得なかったであろうデータであることは確かで、なかなか刺激的なのは間違いありません。

 

それは本当にオタクなのか

 ただ、このデータが何を意味しているのかについては、それなりに慎重に見ていく必要があるだろうなというのが正直なところです。

 何というか、本能的な話として。

 というわけで、慎重に吟味してみました。

 

 まず、自分を何のオタクだと思うかという質問に対して、およそ3/4が「アイドルやアーティスト」と答えているのが目立ちます。

 この時点ですでに、アンテナに引っかかるものがありますね。

 確かに昔から、アイドルにもアーティストにも、非常に濃いオタクは付いています。

 送り手側がもっとも接触する機会の多いのがこのタイプのオタクだと思いますし、その意味では昔からオタクイメージの重要な一端を担っていたといっても過言ではない。

 

 ただ、その次の項目で、好きなジャンルのおよそ7割をジャニーズとK-POPが占めていること、さらにその次の項目における「コト消費」の多さを考えていくと、どうも浮かび上がってくる像に違和感があります。

 何というか、とても「開かれていて」「お陽様の匂いを感じる」んですよね。

 ここに含まれているものの多くは、10代におけるすごく当たり前の動きの一つを取り出しているに過ぎず、そこに「オタク活動」のラベルを貼っているだけ、に感じられるわけです。

 

本能が拒絶している

 もちろん、オタクの定義はとても難しいもので、あるスタイルを見て「これはオタクだ」「これはオタクとは呼べない」と簡単に分類できるものではありません。

 そんな難しいオタク論に、ここで参入するつもりは毛頭ありません。

 でも一つの現実として、私という一人のオタクは次のように思わざるを得ないのです。

「ま、眩しい……! 決して自分とは相容れない、あの忌まわしき一般人の匂いがする……!」

 

オタクは実際のところ概ね日陰者では

 いわゆるオタク差別というものを語るとき、差別に反対する人達はしばしば、差別の内容そのものを「間違っている」と批判します。

 その中には、いわゆるスタンダードな「社会にあまり馴染めない性格」「冴えない容姿」といったものも、もちろん含まれています。

 

 しかし私はいつも、それらの論の展開を目にする時、応援しつつも心の奥底ではこんな風に思っていました。

「でも、オタクって実際のところあまり社会に馴染めていない人が多いし、見た目冴えないし、人間的にノーサンキューな人が多いよな……」

 

 そうではない、ごく普通のレベルを保ったオタクの人には本当に申し訳ないのですが、それが私の認識です。

 そして実際、よくネットで記事になるアニメ系のイベントレポートなどを見てみても、そして何よりコミケの在りようなどを――私はコミケに行ったことがありませんが――考えてみても、確かにオタクにはアレな人が多いと思うのです。

 

 一人ひとりを見れば、そこまで異常な人は少数派だと思いますが、集まったところを見てみると、いわゆる一般人の集まりと比べて、何と言いますか色合いからして違うじゃないですか。

 

 オタクという言葉が一般的なものになり、その意味するところがどんどん脱臭されていったとしても、このような社会に対する積極性のない冴えない人間達は当然残ります。

 オタクのイメージ向上に乗っかって活動しやすくなる面もあるのかもしれませんが、私などはこう思ってしまうのです。

 自分の領域を奪われたと。そして自分は名前のない存在になりつつあるのだと。

 

「キモけりゃ何でもオタク」と言う人もいる

 以前別の機会に、ここまで語ってきたのとはまた違ったオタクのくくり方を目にしたことがあります。

 最近では、深夜アニメを好むくらいではオタクとは呼ばれない。では誰のことをオタクと呼ぶかというと、ごくシンプルに「気持ち悪い人」のことを(趣味にかかわらず)そう呼ぶのだ――という内容でした。

 

 失礼で乱暴な話と言えばまったくその通りなのですが、しかし私はそこに一定の説得力を感じてしまいました。

 中森明夫さんがどのようなことを考えて「おたく族」という言葉を作ったにせよ、実際問題として、この言葉は何者かを「ソトの者として忌む」ために使われてきたものなのです。

 オタクコンテンツ自体に対するイメージが脱臭されつつあるのなら、取り残された従来の「忌み」が、行き場を失ってそのような方向に変容したとしても、おかしくはないでしょう。

 

私は何者なのか

 今回話した2つの内容は、本質的には同じものの表れなのだと私は感じています。

 繰り返すようですが、難しいオタク論を展開するつもりはさらさらありません。

 私が言いたいのは、私のようなオタクが、少なくとも概念的なカテゴリの上では、どこに収まったらいいのか分からなくなりつつあるということです。

 

 宮崎勤事件の直後にあったというオタク排斥の空気ほど酷いものではないかもしれません。

 でも、従来のオタク的なものが自分を置いてどんどん綺麗になってしまい、そこに自分の居場所がなくなってしまったように感じさせられることもまた、なかなかしんどさのある流れです。

 

 一応今でも私はオタクを自称していますが、最近では注釈が必要かなと思うようになっているんですよね。

「オタクといっても、ちょっと『普通』じゃないんですけどね」みたいな。

 まさかそんな断りが頭に浮かぶような時代がやってこようとは、まったく想像していませんでした。

 

消されたくないです

 その一方で、表現規制はどんどん厳しいものになっているのですから、そちらの意味でもなんとも窮屈です。

 こんな風にして、やがては綺麗なものだけがその存在を認められ、私のような古典的なオタクや、そういう人間が好む「いかがわしい」コンテンツは、ラベルと居場所を失い、フェードアウトしていく宿命なのでしょうか。

 

 神よ、オタクを救いたまえ。